「無印良品」「ユニクロ」好きなシンプル族ってなに?
『シンプル族の反乱』 ..........≪続きを読む≫

 最近、「○○男子」や「○○族」という言葉をやたらと耳にする。最近のyahooニュースによれば水筒を持ってるだけで男性は水筒男子にカテゴリづけされてしまうようだ。なんだそりゃ。
 メディアがこういったある種乱暴なカテゴリ分けをこれほど頻繁に用いるようになったのはつい最近のことであるように思う。もちろん、昔から「タケノコ族」とか「カミナリ族」とか「団塊の世代」とか(僕は前者2つが実際にどういうものであるかよく知らないが)そういった区分はあったのだが、毎週新しいカテゴリ名を耳にするほどではなかったと思う。こういったカテゴリ分けが頻繁に行われるようになった背景には一体何があるのだろう? おそらくそこには2つの原因がある。

 1つ目は我々個人が世間に対して発信できる情報量が増えたことである。もうほとんどの人は忘れかけているが、インターネットがこれほど普及していなかった十数年前まで、我々個人はよほどの努力を行わない限り、不特定多数の人の目や耳にふれるような形で情報を発信することはできなかった。今僕がブログに書いている雑文は、(原理的には)世界中の人が閲覧可能な文章である。そういった個人レベルでの情報の発信はある種の嗜好を持った人々同士のネットワークを強固なものにしてきた。mixiなどのSNSでコミュニティと呼ばれる集合がその最たる例であろう。これらがもたらした影響は非常に大きい。それがもたらした匿名性を持った個人レベルでの連結はほとんどのマイノリティをマイノリティでなくしてしまったからだ。例えば、いい歳した大人が「アニメが好き」と言うと昔はそれだけで犯罪者予備軍だったのである。(そこには悲惨な事件の例があったわけだが)その昔、彼らは現代から見れば隠れキリシタンのような生活を送っていたのだ。しかし、現代ではその情勢も若干変わりつつある。その背景には匿名で「アニメが好きだ」という人が集まれる場ができたことが大きく影響しているのだと思う。これは別にアニメに限ったことではなくて、例えば「水筒を持ち歩きたい」とか「ユニクロが好きだ」といった主張でも置換可能である。そうした個人間のネットワークの形成が実際に○○族のようなカテゴリを作っているのだろう。

 2つ目の理由はそうやって細分化された新しいネットワークをマクロに記述しようとするメディアの目論みであると思う。それはある意味では統計熱力学による分子運動の記述に似ており、ある意味ではインターネット上で行われるタギングと呼ばれる「タグ」によるデータの管理方法に似ていると思う。要するに、メディアは近年新しく発生したこの移ろいやすく不定形な集合を記述する術を模索している段階なのだろう。それはある点では成功するかもしれないが現在までのところ、たいした成功は収めていないような気がする。単純にいって、それらは僕たちの心に響かないし、みんなが既にうんざりしつつあるからだ。
 だが、そのような努力は誰かが絶え間なく行わなければならないものなのだろう。相互理解を目指そうとする努力の放棄は社会の存在そのものを否定するものになりかねないのだから。だから僕も、このろくでもない記事について(日本語のマズさと引用の多さに見られるライターの努力不足を除いて)目をつぶらなければならないのかもしれない。