2日前のニュースだが、どうもコアラがヤバいらしい。

コアラの数が急減、30年で絶滅の恐れも=豪研究者
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091110-00000830-reu-int


 記事によれば原因は森林開発や山火事や地球温暖化とのことだ。このうち山火事については気候が乾燥したオーストラリアではもともと多いものであるが、地球温暖化などの影響がそれに拍車をかけているのかもしれない。また、オーストラリアの主な樹木であるユーカリは、油分を多く含んでおり、これも山火事が多い原因の一つようだ。ただし、ユーカリの種子は熱に強く、むしろ一度熱処理した方が発芽しやすいというものもあるそうなので、ユーカリにとっては多発する山火事も繁栄の過程にあらかじめ織り込まれたシナリオなのだと思う。
 さて、ユーカリといえばコアラの食草として一般に知られていると思うが、オーストラリアには500種近いユーカリ属の樹があり、オーストラリアの樹木の3/4がユーカリだと言われている。おそらく、オーストラリアの哺乳類のほとんどが有袋類であるように、これも適応放散の結果なのだろう。また、多くのバリエーションを持ったユーカリだが、コアラの食べるユーカリはこの中のほんのわずかな種類でしかない。きっとコアラは有毒で他の生物があまり食べないユーカリを腸内細菌を利用して食用としたことと、あまり他の生物にとって魅力的でない樹の上からなかなか降りてこないことで生存競争に勝ってきたのだろう。
 そういった意味でコアラを支える生態系は非常に特殊で脆弱であり、フクロオオカミが3万年前に人間と犬の移住によってオーストラリア大陸から姿を消したように、外部からの生物の流入によって危険に曝されやすい生物だ。今日のような事態は、オーストラリア大陸に白人が移入してきたあたりで決定していたことなのかもしれない。

 そうなると、コアラを絶滅から救う根本的な解決策は、人間が連れてきた家畜や植物や寄生虫ともどもオーストラリア大陸から出て行くことになるのだが、現実にはそうはいかない。オーストラリアは肉や小麦を多く輸出しているし、突然オーストラリアの産業が停止してしまえば、多くの人々が飢えることになるだろう。そして、この議論は別にオーストラリアから人間が出て行くという前提に基づかなくとも開発を停止することにだって当てはまる。人口という食料の受け皿は日に日に拡大していっているのだから。
 無論これは乱暴な議論ではある。開発された土地が全て農地になるわけではないし、無計画な開発で使えない土地が生まれることだってある。ただし、逆に全くのウソというわけでもない。日本という恵まれた国に生まれた僕たちはそういった事実に気づかずに、コアラの可愛さに目を奪われてしまうことが多すぎるように思うのだ。ほとんど第一次産業にも携わらず、飢えることの無い国の僕たちは、コアラを守れという議論の裏には何か支払わなければならない代償があることを忘れてしまう。

 僕自身の考えになるが、人類がこれから先も安定して繁栄していく上で、何種類かの生物が犠牲になるのは仕方の無いことだと思う。発展する上でどんな生物も犠牲にしては行けないというのは偽善でしかない。人間は環境に大きな影響を与える生物だ。だが、別に人間という生物だけが環境を変化させてきたわけではない。シアノバクテリアが地球上に誕生した時、彼らの発生させる酸素は多くの生物の命を奪っただろうし、被子植物が裸子植物に代わって地上を席巻しはじめた時、多くの動物が飢えで死んだだろう。そのとき、彼らは何らかの罪悪感を感じただろうか? 生きるということは周囲を変化させることなのだ。そういうものだ。
 人間が全く何も地球を変えてはいけないというのは絶対に無理なことだ。そこには必ず何か別の犠牲が別な形で支払われることになるだろう。何もコアラなら絶滅しても良いというワケではないが、メリットとデメリットを天秤に乗せ、できる限り公平に判断しなくてはならない。「絶滅危惧種を救え」という主張はとても高尚で尊い主張だとは思う。人類誕生からたかだか数百万年、地球の生物史においてはまだまだ新参者である。先輩方に敬意を評すべきだし、地球が自分たちのものという勘違いは足下を掬うことになるだろう。現実的な面から言っても多様性の無い生態系は脆弱だし、それは人間にとっても危険である。
 ただ、それでも僕たちは愛すべき同胞を第一に考えなければならないはずではないのだろうか?

 当然のことなのだが、人類がまずやらねばならないことは絶滅危惧種の保護でも、CO2削減でも、代替エネルギーの開発でも、ペットボトルのリサイクルでも、割り箸の不使用でもなくて、産児制限なのである。これだけが人類の持続的発展を可能にする唯一無二の解決策だ。でも現在、その主張はいくつかの理由から巧妙に避けられている。この最後の手段を世界中が真剣に議論し始めるためにはもう少しの時間が必要になるだろう。

で、えーとなんだっけ? ひとまず学校に行かなきゃならないので思いついたらまた書きます。
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 このニュースについて、本気のコメントが多くて驚いた。Weekly World Newsは有名なタブロイド紙で、どーでもいい胡散臭い記事ばっかり載せている新聞なのだ。マリリンモンローが生きてただとか、宇宙人が捕まっただとか。一応調べてみたが、人間の体の機能と構造についての世界会議なんて学会自体あってないんじゃないか? 検索しても引っかからないし。(ものすごくマイナーな学会である可能性は否定できないけれど)

 そもそもこの記事自体、ゆかしメディアとかいう聞いたことのないサイトからの孫引きだし、アメブロニュースに掲載した人がそこのところを理解してたかすら怪しい。
 最近、いろんなサイトにニュース記事が孫引きされてるけど、こういうのを見たとき、みんな原文にあたろうとしないのだろうか? みんながこういった記事が(データの真偽はともかく、すくなくともこういったシンポジウムが開催され、そういった発表があったのことが)真実だと思い込む風潮が出来上がっているのだとすれば、それはとても危険なことだと思う。くわばらくわばら。

 ニュースソースくらいはちゃんと読もう。
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「無印良品」「ユニクロ」好きなシンプル族ってなに?
『シンプル族の反乱』 ..........≪続きを読む≫

 最近、「○○男子」や「○○族」という言葉をやたらと耳にする。最近のyahooニュースによれば水筒を持ってるだけで男性は水筒男子にカテゴリづけされてしまうようだ。なんだそりゃ。
 メディアがこういったある種乱暴なカテゴリ分けをこれほど頻繁に用いるようになったのはつい最近のことであるように思う。もちろん、昔から「タケノコ族」とか「カミナリ族」とか「団塊の世代」とか(僕は前者2つが実際にどういうものであるかよく知らないが)そういった区分はあったのだが、毎週新しいカテゴリ名を耳にするほどではなかったと思う。こういったカテゴリ分けが頻繁に行われるようになった背景には一体何があるのだろう? おそらくそこには2つの原因がある。

 1つ目は我々個人が世間に対して発信できる情報量が増えたことである。もうほとんどの人は忘れかけているが、インターネットがこれほど普及していなかった十数年前まで、我々個人はよほどの努力を行わない限り、不特定多数の人の目や耳にふれるような形で情報を発信することはできなかった。今僕がブログに書いている雑文は、(原理的には)世界中の人が閲覧可能な文章である。そういった個人レベルでの情報の発信はある種の嗜好を持った人々同士のネットワークを強固なものにしてきた。mixiなどのSNSでコミュニティと呼ばれる集合がその最たる例であろう。これらがもたらした影響は非常に大きい。それがもたらした匿名性を持った個人レベルでの連結はほとんどのマイノリティをマイノリティでなくしてしまったからだ。例えば、いい歳した大人が「アニメが好き」と言うと昔はそれだけで犯罪者予備軍だったのである。(そこには悲惨な事件の例があったわけだが)その昔、彼らは現代から見れば隠れキリシタンのような生活を送っていたのだ。しかし、現代ではその情勢も若干変わりつつある。その背景には匿名で「アニメが好きだ」という人が集まれる場ができたことが大きく影響しているのだと思う。これは別にアニメに限ったことではなくて、例えば「水筒を持ち歩きたい」とか「ユニクロが好きだ」といった主張でも置換可能である。そうした個人間のネットワークの形成が実際に○○族のようなカテゴリを作っているのだろう。

 2つ目の理由はそうやって細分化された新しいネットワークをマクロに記述しようとするメディアの目論みであると思う。それはある意味では統計熱力学による分子運動の記述に似ており、ある意味ではインターネット上で行われるタギングと呼ばれる「タグ」によるデータの管理方法に似ていると思う。要するに、メディアは近年新しく発生したこの移ろいやすく不定形な集合を記述する術を模索している段階なのだろう。それはある点では成功するかもしれないが現在までのところ、たいした成功は収めていないような気がする。単純にいって、それらは僕たちの心に響かないし、みんなが既にうんざりしつつあるからだ。
 だが、そのような努力は誰かが絶え間なく行わなければならないものなのだろう。相互理解を目指そうとする努力の放棄は社会の存在そのものを否定するものになりかねないのだから。だから僕も、このろくでもない記事について(日本語のマズさと引用の多さに見られるライターの努力不足を除いて)目をつぶらなければならないのかもしれない。
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