戦争報道についてのキャメラマン座談会2003/6/16 | 目隠しされた馬 撮影師・辻智彦のブログ

目隠しされた馬 撮影師・辻智彦のブログ

キャメラマンは目隠しされた馬か?

 

 戦争報道についてのキャメラマン座談会 2003年6月16日

 

出席者

 

川上晧市(司会)_1946年東京都生。多磨美術大学卒。主な撮影作品『サード』『つぐみ』『身も心も』『スリ』など多数。

 

渡辺 浩_1930年長崎県生。早稲田大学文学部卒。松竹大船撮影所に入社。『映画キャメラマンの世界』等の著書がある。

 

益子広司_1933年東京都生。中央大学法学部卒。NHK入局後ドキュメンタリー、ドラマ共に数多く番組の撮影を手がける。

 

山崎 裕_1940年東京都生。日本大学芸術学部卒。TVドキュメンタリーの他、是枝裕和氏や河瀬直美氏の劇映画を手がける。

 

渡部 眞_1953年東京都生。早稲田大学政経学部卒業後渡米。AFI卒。映画『らせん』『五条霊戦記』『恋に唄えば』等の撮影の他、翻訳も手がける。

 

辻 智彦_1970年和歌山県生。日本大学芸術学部卒。主にTVドキュメンタリーを手がける。『世界の車窓から』『ザ・ノンフィクション』等。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

---9.11をどうしていたか---

 

益子 9.11の時はどこにいたの?

 

 テレビ番組のロケでウクライナにいたんです。夜ホテルでテレビをつけると、例のツインタワーが燃えていたんですね。画面の下に字幕で「Plane attack」とか出ているけれど、ナレーションはウクライナ語だし、意味がつながらなくてよく分からないんです。そのうち飛行機が激突した瞬間の映像なんかが入って来て、ようやくテロだと分かりました。それですごくびっくりしたんですけど、同時にアメリカっていうものをそれだけ憎んでいるっていう、攻撃した人達の怒りの大きさみたいなものが感じられました。

 

益子 ウクライナの人達はどういう感じだったの?

 

 遠い国の出来事だっていうふうに、普通の人はあまり気にしていなかったみたいでした。ただ、実は僕達が直接受けた被害というのがあって、偶然9.11の次の日に空撮を予定していたんですけど、ウクライナ全土に飛行規制が出て、空撮が出来なくなったんですね。それと、帰国時に使う予定だったシンフェローポリという場所の空港が、チェチェンに近いというので、軍事使用の為に閉鎖されるかも知れないという情報が入って、そこでスケジュール変更の会議をしたり、別のルートを調べてみたりしました。結局閉鎖はされなかったんですが、そう言う意味での緊張感というのは確かにありました。ただ、普通に町で撮影をしていく上では問題はなかったですね。

 

益子 他の撮影でも、何か撮影の上で実際に戦争とかテロとかで直接、間接に被害にあったという経験はありますか?

 

渡部眞 チリに行った時に、まだ軍事政権だったので、実際に紛争している訳ではないんですが、撮影の途中で止められて、尋問みたいなことは受けたりしましたね。でもそういう経験は、山崎さんがいっぱいあるんじゃないですか?

 

 

---レバノン内戦からイラク戦争報道の体制---

 

山崎 キャメラマンとしての戦争報道っていうのが、どのへんのポイントから話せばいいのかちょっと分からないんですが、自分の経験から言えば、1984年、内戦状態になっていたベイルートの取材をしたときに、日本のテレビ局、新聞社、正規のジャーナリストと言われる人達が全部ベイルートから出て行っちゃったんです。ベトナム戦争の頃だったら、テレビ局の社員もフリーの人も取材に行ってたわけだけども、ベイルートの内戦くらいから、局の職員とか社員はその現場からいなくなっちゃうんです。だからその時に僕達としては、そういう人達がいないところにあえて行こうと。その時は、キリスト教徒とイスラム教徒の、グリ−ンラインを挟んで内戦状態になっているところへ、2班入ったんです。で、行ってみると、外国の通信社やネットワークは全部いるわけですよ。そこで、いわゆるジャーナリストというものに対する考え方が、日本とヨーロッパやアメリカではものすごく違うんだなというのを感じました。戦争だからということで、日本の場合だと安全管理ということがまず考慮されるけど、ヨーロッパの場合だとジャーナリストとして、戦争というのは伝えるべきなんだというのが基本にあって、社員だろうがフリーだろうがみんな残っている。戦争報道に対する考え方が随分違うんだなと実感しました。それで、日本の新聞記事だと、記者が如何に脱出したかというのが連載されている。結局新聞記者の苦労話が報道になってしまっている。そうじゃなくて、なぜベイルートに日本のジャーナリストは残らなかったのか。ベトナム戦争の頃はまだいましたよね。あるいは海外の通信社に日本のキャメラマンが雇われて入ったりもしていましたし、報道にはそういう無軌道さが残っていた。そういうところで戦争報道のあり方が確かに変わって来ている。

 

渡部眞 ベトナム戦争では相当戦況が悪いのが報道によってばれてしまった。それでアメリカは反省して、報道をコントロールするようになって来たと言うのはありますよね。今回のイラク戦争では、コントロールされてないようなされかたで完全にコントロールされていましたね。ベトナム戦争での報道のありかたとは全然違う。

 

益子 だけど、ベトナム戦争の場合には、一見すごくフリーに見えたけど、実際はどうだったんだろうね。

 

山崎 ただやっぱり、朝鮮戦争とかベトナム戦争までは、軍と従軍キャメラマンの関係性というのが、ある程度ルールがあったわけですね。ベトナム戦争の報道も、実はほとんどがアメリカ軍について取材しているわけだし、元々はアメリカの国威発揚のために、アメリカのGIが頑張ってるよというニュースを撮っていた。問題は現実にそこに写ってくるもの、見えてくるものがアメリカ軍の意図以外のもの、もちろんそこにキャメラマンの思いが入って来たりすることも含めて、戦意を昂揚させるはずのものが、映像としてテレビというメディアに流れた時に、むしろ戦争に対する嫌悪感というものがそのなかに生まれて来たと。その結果、アメリカにおいて、映像やテレビのありようというものの捉え方が変わったと思います。これ以降、アメリカは戦争報道というものをすごく意識しはじめて、それが湾岸戦争なんかは報道を完全にシャットアウト、というか操作したわけです。で、今度操作しすぎたことで失敗して、じゃあ次はお抱えキャメラマンにして連れて行こう、という発想が今回のイラク戦争にはあったんだろうと、単純にいえばそういう流れがあったと思います。

 

 不思議だったのが、アメリカ軍の従軍取材をしているのがテレビ局とか新聞社の記者で、それに対して、バグダッドに残ってイラク側から取材していたのがフリーのジャーナリストだと。その構図に何か問題があるんじゃないかという気がするんですよね。従軍取材のありかたがかなり片寄ったというか、アメリカが意図した方に誘導しようみたいな取材体制、エンベッド取材というんですか、部隊と完全に一体化して、取材出来ないことと取材出来ることがあらかじめ細かく決められてあって、最終的に米軍が出る情報を判断するという、そういう形があったみたいなんですが、そこが腑に落ちない部分なんですよ。

それで、今回の従軍取材の場合、アメリカ軍に同乗してイラクに入って行くわけですが、その時の日本のジャーナリスト達の論理というのはどういうものなんだろうかと。他の人達が苦労してビザを取って入っていくところを、簡単にいうと不法入国するわけじゃないですか。アメリカにはアメリカの論理があるんだろうけど、日本の新聞社やテレビ局はそれぞれが固有の論理を持っていたのか、それともアメリカの論理を正しいとしてそのまま飲み込んでいたのか。ビザもなし、入国手続きもなしでイラクに入って、いったん入った後は、当然米軍に守られないと周りには出られない状態になる。それに対して日本のメディアはどういう考えを持っていたのか、果たしてそういう取材をする意味はあるんだろうか、僕はそれを疑問に思っているんです。

 

山崎 従軍取材というのは米軍のオーソリティーのもとで報道するということですよ。大枠では間違いなく管理されていることを理解した上で、あえてそこから報道するという方法。

それで、僕がベイルートに行った時に感じたことは、今回のイラクのバグダッド側から取材している人達も同じなんですが、ほとんどインディペンデントのフリージャーナリスト達が、自分達の責任の上で伝えるべきだという態度でやっているということ。まあお金になるということもあるのかも知れませんが、そこでの立場と、テレビ局の人間が米軍の何とか大隊に許可をもらったから行くという立場では、やっぱり違うと思うんですよね。

 

 

---キャメラマンがどうかかわっていくか---

 

益子 僕の場合だったらね、もしそういう立場になったなら、まあ進んで撮りたいという精神状態になりゃ別だけど、仕事でやってくれという事でやったとしたらね、一体どこまで踏み込めるか。僕は臆病だから、安全なとこでごまかしちゃえと、そういう撮り方になっちゃうんじゃないかな。例えば軍事演習で、実弾で演習するのがあるじゃない、昔あれ撮ったんだけど、大丈夫ですよといわれても、飛んでる弾の下で匍匐(ほふく)でこう撮ってると、やっぱり怖いよね。手榴弾のテストも怖かった。

 

山崎 でも、あれは慣れちゃうんですよ、最初怖いと思っていても、一週間もいるとそこに慣れちゃうんです。でもそれが逆に怖いんですよ。どんどん危険に近付いちゃう。

 

益子 精神異常になっちゃう?

 

山崎 いや、そうじゃなくて、音はするけど弾に当たんないから。最初ドカーンて来た時はワッ!と思って首をすくめるんだけど、そのうちヒュー、ドカンくらいは、1キロぐらい離れてるんだと思ってカミナリと同じような感じになっちゃう。それが逆にすごく怖いんです。それでだんだん危険に近付いてキャメラマンは命を落としちゃうんですよ。僕の友達で、ベトナム戦争の撮影に行った奴もそうだったんだけど。

ベイルートに行った別班のキャメラマンも、最後の方は本当に撃ち合いの、銃撃戦の真横から平気でカメラを構えて撮れるようになっちゃった。それを見て、ディレクターがもう取材を中止したんです。キャメラマンがそこまで麻痺ちゃったから。はじめは怖くて陰から撮ってたんですけどね。だんだん麻痺してくるんです。

 

益子 映画でいえばさ、「西部戦線異常なし」は1930年の作品だけども、やはりそこがポイントになってるよね。アジられて、それじゃ行くかって出征して、大勢で戦争に行くじゃない。それで戦場に行って、はじめは皆もらしちゃうほどおっかなくって、でもそれがどんどん、今言ったように慣れてきて、だけど最後に主人公は、塹壕からチョウチョに手を伸ばして、それで撃たれちゃう。やはりそういう恐怖感ていうのは、取り払われちゃうのかな。そう考えると、例えば携帯に付いてるようなカメラなんかで撮れるようになった今の時代では、キャメラマンがでっかいカメラを持ってって、よりリアルに、もっとディテールが見えるような映像をきちっと撮るというよりも、携帯でピュッと撮ってね、パッと送ってはい、今です、という映像でやる方がまだいいなんてことになるのか。

 

山崎 それに近い報道が今回のイラクではありましたね。今そこから見えてるものの報道が、益子さんが指摘された携帯電話で撮るというような、今出て来ているテレフォンニュースギャザリング、「TNG」やサテライトニュースギャザリング、「SNG」といった形で行なわれている報道の形、デジカメで撮ってパソコンで処理して送るとか、そのままビデオフォンで送るとかいう状況のなかで伝えられていて、そのなかでは、今起こっている現象に対して、目の前の出来事がどうだこうだというだけの報道がほとんどになってしまっている。

確かに戦争報道では、目の前の現実というのはものすごく大事にしなきゃいけないんだけれど、それは所詮、ある一部分の現実の断片で、たまたま自分がそこで見たものに過ぎない。それは一方で大事にしなきゃいけないと同時に、でもそこから全体は必ず見えない、その限界と怖さを本当は持たなきゃいけない。そこが見えないまま報道が行なわれているじゃないですか。「今」というのがそのまんまイラクから日本の茶の間に繋がる、アメリカの茶の間に繋がる。しかし、イラク戦争の報道の中で、カメラが何を見ようとしたかという視線を持って伝えられた映像というものは、僕はほとんど感じられなかったですよね。

ものすごくハードが便利になったビデオジャーナリズム、そのなかでジャーナリストと称する人達の、「今」のジャーナリズム情報としての映像が伝えられていると。そういう状況にキャメラマンが行った場合、キャメラマンとして何が出来るのかというところが、ある意味で問われていると思います。

 

 一次的な情報だけで、それをどう判断して行くかという部分が抜け落ちている感じがしたんですよね。情報をどう判断するのかという作業をテレビを見ている人がするしかないという感じがあって。

今回の従軍取材でいうと、結局それで撮れたものは一次的な情報だけだったと思うんです、結果を見ても。そんな情報なら、わざわざ日本人が行く必要もないし、例えばアメリカのメディアが撮った映像を一次情報として受けて、それを批判的に検討して行く作業を報道として行なった方が、今回の戦争の実像に相対的には迫れたんじゃないかと思うんです。例えば従軍取材でキャメラマンが行ったとして、キャメラマンの思いや判断というものがどこまで映像に反映出来るのか、今回だったらほとんど難しかったんじゃないでしょうか。

 

渡部眞 むしろそれは求められていなかったんじゃないですか。今回、一つ一つのカメラっていうのが、日本人であろうが何人であろうが、まあアメリカ人のキャメラマンは一番いい、突入する先頭のポジションを与えられていたと思うんだけど、日本のカメラは、言ってみれば複数のカメラが切り替えられるかたちでのカメラの一つとしてしか、考えられていなかったんじゃないでしょうか。それでそこから先の判断とか物語の作り方は、おそらくアメリカに操作されてしまう。

 

益子 それと、自分がその場にいたらどうかという問いかけがどこまで出来るかっていうのが、僕は大事だと思っていて、僕の場合だったら、ものすごく怖いというのが一つあるし、言語の問題もあるし、普段平和な日常生活が長く続いてると、よけい戦場に行ってその場に立たされたとしたら、とてもじゃないけど逃げ出しちゃうんじゃないかな。だから出来ないからいいや、向こうはアルジャジーラに任せちゃえって、僕はそうなるかも知れない。

 

 でもそれはあり得る判断だと思うんですよね。自分の意思とか入れられなくて、情報としてしか撮れない映像しか撮れないのであれば、何のために危険を犯してまで行くのかっていうのが、本当に分からなくなると思う。自分はただ派手な映像を撮りたいから行くのか、極限状況を経験したいから行くのか、そういうところまでの問いかけになっちゃう。

 

益子 そうなんだよね。だから、そういう気持ちで言うと、今やってるみたいな、軍隊にくっついて行ってさ、戦車の前にくっつけてるカメラみたいになって、「今、最前線では、」なんていうんじゃなくなるよね。映画でいえば亀井文夫の「戦ふ兵隊」みたいな気分に近い。あれなんか極端に言うと、撃つとこなんにもないんだから。でもさ、一方で、僕にとっての戦争映像っていうのは、最近の映画で言うと「プライベートライアン」の壮絶な戦闘の再現みたいなものもあるんだよね。

 

山崎 キャパの世界ですか(笑)

 

益子 いや、だからキャパの世界は俺駄目なんだよ。入れないんだよ。写真家で言ったらキャパじゃなくてユージンスミスなんだよ。やはりキャパのあの兵士の写真は俺には撮れない。もし従軍で行ったとしたら、やはりスミスのさ、将兵越しの向こうの教会の画とかね、子供を抱いたサイパンの画とかさ、ああいう画になってくると思う。だから、それは大きく違うよね、自分の立ち位置が。スミスが第一線に行ってないってことじゃなくてね、彼も手榴弾の破片を受けてるわけだから。だけどやはり僕はキャパの画は撮れない。

 

山崎 「プライベートライアン」の壮絶な部分はキャパのアングルを研究したって聞きますよね。そして、戦争でのキャメラマンのポジションていうのが、そういう激しい部分から、益子さんのおっしゃったユージンスミスのような部分までの幅っていうのが必ずあると思うんですよ。それは、戦争が行なわれている表面と、それ以外にもっと幅ひろく、戦争によって起こっている多くの事態や巻き込まれる地域、そこに住む人々の生活っていうのが、戦争する側、巻き込まれる人々も含めて必ずある。

戦争報道っていうのも、戦闘行為そのものの撮影と、それが行なわれている地域や人々の報道っていうものとがあって、戦争をどう見て行くか、見ていく側のキャメラマンの立場として、カメラポジションというのが決まってくる。今回の場合にも、バグダッドに入った人間と、米軍御墨付きの従軍記者で戦車に乗った人間のポジションの違いというものが、多分はっきりあるんですよ。

 

渡部眞 それと同時に、今これからの戦争のかたちが、対立する二つの国や勢力が、ある地域で戦闘行為を行なうんじゃなくて、テロのように、いろんなところで分散して、いろんなところで多発し始めてくると、「戦争を撮る」という報道ということだけじゃなくて、先ほど言われたようなカメラ付き携帯でとりあえず近くにいる人が撮る、つまり報道においてはキャメラマンというものがプロフェッショナルである必要がなくなってくる、そういうことも戦争報道の流れとしては見えてきていますね。

 

山崎 それは間違いなく一つの事実なんだけど、それはやっぱりたまたま写っちゃったものでしかないんですよ。例えば今回のフセインの銅像倒しもいろんな形で報道されたけれども、熱狂する市民という報道のされ方と、いやたいした数の人間がいないという報道と、言葉で報道されてる事と写ってる事とがみんなちぐはぐになってて、あのフセインの銅像が倒されるっていうことの、ビルの上からであろうがどっからであろうが、撮影されたいくつかの映像のなかに、キャメラマンとして、その現実に対して何が起こっているのかを捉え直そうという意識で撮ってる構図とかアングルは、無いんですよ。アメリカのニュースなんかの、大勢の市民が喜んでますみたいな報道で、アップで銅像を引き倒してワーッとなってる映像があるけど、でもほんとはあれ何気なくフッと引いた映像がチラッと写るんだけど、そうすると百人くらいの人間と、アメリカ兵だけでやってるんですよ。そういうのが画面にちらちら写りはするんですが、その状況が持つ意味みたいなものを意図的に撮ってる人はいないんですよね。

 

 アメリカ軍の明白な意図のもとで行なわれた行為を、単純なイメージの情報としてしか撮影出来なかったことで、結果としてアメリカの宣伝に乗せられてしまったというか、あそこでの出来事について、カメラを通じて批評するという眼差しをもって撮影した人がいなかった。

 

山崎 コメントでは伝えられたけどね。その状況を見ていた人によって、言葉としては伝えられたけれど、それでも送られて来ている映像っていうのは全く別で、そこにギャップがある。そういう意味では、やはりキャメラマン不在なんですよ。

 

益子 そうすると、湾岸戦争以降の電子システムのなかでの映像っていうのは、キャメラマン不在なのか(笑)

 

渡部眞 ただ、キャメラマン不在が、ミサイルの先にカメラがついてるとか、戦車と一緒にカメラが進んでるとか、そういう映像を求めてるのは誰かということもあるんですよね。ある意味プロの人達が作り上げてきた迫力ある映像と同じようなものを、観客として人々が求めてしまっていることがかなり問題ですよね。戦争と言えば何か迫力のある、弾がこっちにくるとか、倒れるものはこっち向きに倒れるとか、もう少し近くに来てくれないかなとか、思わず思ってしまう心自体がかなり危ない。フセイン像が倒れるにしても、倒れる所を平気で引けちゃう、引いた画しか撮らない、そのために首になってもいいっていう、それくらいの意志でやらないとその流れには逆らえないかも知れない。それが出来ないんなら、例えば天安門の時に、カメラの映像が流せなくて音だけ流してたけど、そういう表現の方が、むしろキャメラマンの悔しさが分かる気がする(笑)

 

 分かりやすいメッセージや、単純に迫力のある映像を見たいという欲望が、映像を見る人には基本的にあるとは思うんですが、キャメラマンとしては、そこで一般にこうだといわれているものについて、それだけではない別の側面を見つけて取り出してくるという作業が、いわゆる創造的に撮影していくということだと思います。そういう意識が一般にキャメラマンにはすごくあると思うんです。そうすると、単純なメッセージの映像、例えばフセイン像が倒された、イコール、フセイン政権が倒された、みたいな単純なイメージ操作に抗う映像をやはり捕まえないと。

 

山崎 それは戦争報道だけの問題じゃないけどね。

 

 でも、さっき出た「戦ふ兵隊」なんかでは、まさに三木茂が、単純なメッセージの映像というものに逆らって、その場にあるもの、それ自体の存在感を丁寧に拾って行って、その結果として、従軍取材であっても日本が頑張って戦ってるみたいなイメージから逃れる映像を捕らえることが出来た。そこが大事な所かなと思うんです。

 

益子 でも、事実を伝えるっていう難しさには限界があるよね。これが事実だ!って思い込んでやるしかない。実際に今の話を聞いてると、伝えられたものは一部分で、本当は何も伝えられてないよと言って、それを前提にあきらめて、これが本当だ、と撮る画というのはどういうものなんだろうか。

 

山崎 目の前に起こっている事しかカメラには写らないんだけれど、目の前に起こっている事で見落としていることとか、その裏にあるものにまで神経がいってるかどうかということじゃないですか。事実というものに対して、事実信仰というか、目の前がこうなんだからこうだ、これがこの事件、この戦争の全てなんだと思いたい気持ちは一方であるんだけど、それは本当はある一面でしかないんだっていうところでもう一回伝えようとするものに対する疑いというか、捉え直しをしないと、辻君が言ったような意味の、状況のなかでもう一つ何か違うものを見つけていこうという視点が生まれてこないと思うんですよね。

 

 

---考え方-キャメラマンとして---

 

川上 話は少し変わりますが、ある人が、「我々の側につくのか、テロリストの側につくのか」というブッシュの言葉に対して、そうではなくて、爆弾の下の人間の側につくのだ、ということを言ってたのですが、皆さんはキャメラマンとしてそういうことをどう捉えますか。立場として、爆弾の下の人間の側に立って報道すべきだという意見に対して。

 

山崎 そういう言葉かどうか分からないけれど、テロリストだろうが正規軍だろうが爆弾は爆弾だろっていうのは間違いないですよね。別にUS ARMYの爆弾だから正義があるわけじゃない。

それで、川上さんが言った「爆弾を落とされる側に立つ」ということで言えば、もし両方で落としっこしていたらどうするんだという問題や、兵士だってある意味「落とされる側」だということもあるんだけど、気持ちとしては、テロであろうが正規軍の大砲であろうが、その攻撃で死ぬ側の人間の生活と論理っていうのも必ずあるよねっていう気持ちはある。まあ、その時にアメリカで平和に暮らしている中産階級の人達の身になって撮ろうとは思わないですよ。

 

益子 ただそこで、どの戦争でもいいんだけど、民衆の後を追うんだって撮っていっても、民衆が本当に非戦闘員なのかって、それも信じられないほど状況が混乱しちゃうと、撮影していていつ何時向かってくるかも知れないみたいな危機感ていうのはあるんじゃないかな。非戦闘員だからといって、悲惨な状況を撮影するという精神までいけるか。俺はちょっとおっかないなって思っちゃう。

 

山崎 ソマリアで取材した時に、アメリカ軍主体の多国籍軍の攻撃に、親におぶられて逃げてる時に撃たれてけがして、親父が死んじゃったっていう子供がいて、十何歳でやっぱり軍事組織に入ってるんですよ。で、その子のインタビューを撮った時に、彼は、内戦になってからアメリカが逃げちゃったんで、早く内戦が終わって前みたいにアメリカ人が来るようになって欲しい。そしたらアメリカ人に復讐が出来ると。そういうことをサラッと言ってのけたんですね。それが98年で、彼は十一歳か十二歳くらいだったんだけど、その後、9.11の後に、ビンラディンが逃げてんじゃないかって噂が出てソマリアが結構狙われたじゃないですか。普段はニュース報道はしないんですが、その時ばかりは急遽ソマリアへ飛んだんですよ。それでその少年を探して見つけられたんだけど、結局軍事組織の方から、撮影は断ると言われました。

そういう意味では、例え軍事組織に入っていようが、爆弾の下にいるそういう少年の気分みたいなものは撮影したくなりますよね。安いとはいえ、月給をもらって仕事として来ている兵士の怪我や死よりは、やっぱりそっちに肩入れしちゃう。

 

渡辺浩 ちょっとしゃべっていいですか。実はちょっと混乱してるんですよ、今度の戦争のいろんな映像を見て。皆さんと同じように、もうキャメラマンはいらないなって感じたのが一つあるんですよ。ただ、人間の撮った画っていうのは全てを制御しているわけじゃないっていうのがあって、キャメラマンの手からもれ出る部分に本当のことが多少写ってるなっていうような画はまだ残ってる。でもやはり情報管理は完全にされてますよね、ベトナム戦争の失敗を二度とくり返さないという。情報官なんか広告代理店の人じゃないのかな、軍服着てるけど。中央軍指令部にいて、午後二時の定時会見というのをやるんでしょ。コーラかなんか飲んでて、自分の気に入った奴にしか質問させない。被害については調査中だと。市場に誘導弾が落ちたとなれば調査中、イラクのスカッドミサイルが当たったんじゃないかとか。大体午後二時に会見っていうのは、アメリカの朝のニュースショーに合わせたんですよね。だから、毎日ギャラを払って出演してもらっているようなもんですよね。逆に独立して取材しようとしたチームはほとんどないですよね。出来なかったというか。例えばね、ITVっていうイギリスのチームがバスラから別行動して、途中まで行った時に、アメリカ軍に砲撃されてるんですよ。それとまあ、アルジャジーラはね、事務所とかミサイルで徹底的にやられてるし。そういう意味で、軍服着てて、それなりの訓練をして、軍隊と同一化したキャメラマンの撮った画というのは果たして信用できるのだろうか、と、とりあえずこの平和な国に住んでいれば思うわけですよ。アメリカ本土に住んでいれば別かもしれないけど。

それで、ふたつ特徴的な画があるんだけど、一つはさっき話に出た銅像引き倒しの映像。象徴的な映像だよね、あれは仕組まれたもんだと思うけど、戦闘用ブルドーザー使って引っ張ってね。あそこにふたつの人間の群れが見えるんですよ。銅像の近くに20人くらいと、ちょっと端のほうに120人くらいかな、待機してる人がいて。それで映像が寄りになると、圧縮されてたくさんいるように見える。そのほうが画に力があるから、何も考えないと、ついそっちに寄っちゃうんじゃないかな、と、あれがひとつ。

あとひとつは、女性の兵士が救出されたでしょう。あれはアメリカ軍提供の映像なんですね。で、BBCがその兵士の入院してる病院を訪れたっていうのがニュースでやってたけど、四月二日かなんかに救出されたのが、その病院からなんですよ。民間の病院で、たいした怪我じゃなくて、戦闘じゃなく交通事故の捻挫で入院してたんですね。で、病院の場所は前から知られてたんだけど、四月二日の夜になって突然、空砲をばんばん撃ちながら、ハリウッド映画みたいに華やかに入っていって連れてきちゃったっていう。ちょうど四月二日くらいっていうのは、戦争が長引くかというのがヘッドラインに並んでいて、いいニュースがなかったんですよ。だからあれは、ラムズフェルドかなんかがやらせたのかなっていう感覚が残ってるんですよね。そのふたつの映像が、今回のイラク戦争でたいへん特徴的だったんじゃないでしょうか。あともう空母の上なんていうのは、何人殺してこようが、高性能精密爆弾を落として来ましたっていうだけの話ですから、なんにも写ってないですよね。そういう時に、皆さん、キャメラマンとしてドキュメンタリーとか劇映画とか、ニュースにも関わられている方達が、どういう風に考えているのかが知りたいんですよ。極端に言えば、一体この商売続けた方がいいのかっていうところもあるんだけど。

 

渡部眞 ニュース映像に関しては、確かにかなり管理されてましたよね。なかなか自分の意志というものを反映させることが難しい。ただ、その後に入った人が、その何年後にでもいいんですけど、どういう風にそれを扱うか、自分の意識を反映させるかたちで撮影をするのであれば、もう少し具体的に自分の視点というものを見せることが出来るとは思うんです。

 

渡辺浩 それはクリエイタ−としてのキャメラマンの立場としては当然な考えだと思います。ただ、そういうのが本当に日本のキャメラマンにできるのだろうか、という疑問はあるんですよね。

 

山崎 日本のキャメラマンというか、本来報道といわれるものは、NHKであったり民放であったり、通信社でありというかたちで記者やキャメラマンというのがいて、そこでいろんな経済事件や暴力事件を含めて、報道するわけじゃないですか。それが、戦争報道だけはそういう人達が現場に行かないっていう約束ごとが出来ちゃってますよね。今回の従軍取材だけ行くっていうのも、米軍のオーソリティーが出て、ある程度の安全が保証されてるというので許したんであって、それ以外ではほとんど行かさせないんですよね。その代わりに、小型化されたビデオが出て、キャメラマンとしてではなく、ビデオジャーナリストとして出て来た人達がいて、結局戦争ジャーナリズムが空白のビジネスチャンスになっていった。今回バグダッド側に入ってる人は、ほとんどがビデオジャーナリストあるいはその出身者でしたからね。そういう事を考えると、ここ最近は、戦争っていうものに対して、どう伝えるかを考えるということを、大手メディアそのものが放棄してしまっているという気がしますね。本来の正社員の記者は戦争になると外から解説するだけ。現場には行かない。それは万が一の時に組織として個人の責任をとりたくないとか、保険金が莫大だからとか、ほとんど組織の論理なんですよ。そういう中では、報道ジャーナリストとしてのキャメラマンというのは当然育っていかない。

 

渡部眞 それと関係あるか分からないですが、最近アメリカから日本に帰って来て、朝のニュースを見てると、大体新聞を写してるんですよね。びっくりしました。

 

山崎 あれは一番駄目な報道ですね(笑)

 

 戦争報道とか、そういったニュース報道にも言える事かもしれないけれど、キャメラマン的な撮影の必要がなくなって来ているというのは、これはもうそういう流れだからしょうがないとは思うんですよ。それで機材はどんどん簡便になってくるから、その場の情報性や速報性が重要な場合には、キャメラマンでなくても、携帯電話に付いてるカメラでパカパカ送られてくる映像で充分というところもある。そういう意味で、戦争報道の現場には、今後、キャメラマンが行くことはもっと減って行くと思います。もしかしたらもういなくなるかも知れない。

 

益子 その代わりに監視カメラがいっぱいになるのかな。

 

 監視カメラみたいなものになっていくと思います。戦争報道やニュース報道も含めて。それは避けられないことだけど、それに対してやっぱりキャメラマンは、反動的かもしれないけど、抗っていかないといけないと思います。キャメラマンの表現というのは、映像自体に表れてくるものでしかないと思うので、情報としての映像だけではなく、自分の価値判断を映像の中に込めて行く、そこは外せないところかなと。

 

山崎 逆に簡単な監視カメラだと、単純にミサイルの先に付いてるとか、ビルの屋上に付いてるとか、それはそれで機械的な意味はあると思うんだけど、デジカメやカメラ携帯みたいなものは、どんなに簡単なものでもやっぱり人間が持ってるんですよ。そこはやっぱり、キャメラマンであるかないか、ジャーナリストであるかないかを問わず、とにかく人間がカメラを持っちゃってるということで、一次情報っていう部分でも、その人の視線を通すことで、やっぱりゆがむというか、バイアスがかかるんだよね。

 

 そのバイアスというのも、キャメラマンじゃない人は、カメラを通して映像として表現することに無自覚というか、映像の持つ危さや曖昧さを素通りしてテーマに向かっちゃう部分がどうしてもあって、そこで、映像としてものごとを伝えるということに自覚的な人間、そこに意識を集中していく人間が果たすべき役割っていうのが、逆にこれから重要になるんじゃないかという気もしてるんです。

 

山崎 ただ、求められてるものは戦争報道にしても何にしても、そこで何が起こってるのかちょっと見てみたいということなんですよ。そこにカメラというハードを使うっていうことで、技術者としての人間が関わってたわけですよ。そのことによって、映像というものが作られていた部分があるけど、いまもう21世紀になって、これだけ映像が簡単に、いろんなかたちで流される状況になってくると、そういう意味での映像に携わるプロっていうのが必要でなくなってきてる。現実に今回のイラクで、日本の報道陣のなかで日本に映像を送った人達の、そのなかの何人が、日常的に自らがキャメラマンとしての活動をしているかを考えると、それは寂しいですね。

 

渡辺浩 「戦争キャメラマン」ていう、去年大阪国際映画祭に出たパチカメの報道記者のドキュメンタリーは知ってますか。写真記者のヘルメットに小さいビデオカメラを固定して、それだけで戦争を撮ってるのがあるんですよ。ただこれがあんまり面白くない。むしろフィルムチェンジをするときの方が面白い、あわてたりして(笑)戦争の方はひょろひょろっと逃げてこっちに隠れるようなところだけで、あんまり面白くなかった。それに比べると、これは管理された映像だけども、ベトナムで、アメリカのパトロール部隊がどっかの村に入って、バンと民家のドアを蹴飛ばして、中でばんばん撃ったりすると。そうしてしばらくすると、逆の扉の方から女の人と子供が震えながら出てくる。そういう画は一度しか使われないんだけれど、そういうものの方が、なんか迫ってくるような気がしましたね。

 

山崎 そういう映像が、ベトナム戦争には確かにありました。

 

渡辺浩 ベトナム戦争では、官製の報道からこぼれ落ちた部分の映像というのが良かったんですよね。それが反戦運動の意識をもり立てたっていうのがあるんだけど、どんどんこぼれ落ちるものがなくなっちゃってきてる。

 

益子 ベトナムの戦い方と、湾岸以降の戦い方はもう、全然違うからね。戦争の構造も全然違っちゃってるし、戦死者の数をみても違うよね。それで9.11になるともう、あれが戦争かって、テロかどうかもよく分からない、たった数時間の戦争かも分かんない。そこいらのとこなんだよね。もう戦い方が全く違って、それで報道のやり方も変わっていってる。

 

渡辺浩 戦争のかたちが違ってきたっていうのは事実ですよね。これが戦争かい?っていうのがあって。イラク戦争では確かに米兵が百人くらい戦死した。ただ、相手方は五十年位前の戦闘方法で来ようとしたわけだ。まともに戦争してないんじゃないかという気がしますけどね、イラクは。これはもう全然かなわないっていうのがあるから。いつ逃げようか、ってそればっかり考えてたふしもあるし。結果からみればね。

 

山崎 イラク軍はどの橋も落としていかなかったですよね。もう攻められることを抵抗しようという意志はあんまりなかったんじゃないか。

 

益子 そうすると本当に、イラク側の人間というのはどういうものなんだろう。さっき出たように、そういう状況のなかでキャメラマンがイラク側から撮るのはどうなるのか。それを撮るのは確かにある意図が出てくるかも知れないけど、それはまた怖い。

 

 確かに今度の戦争のかたちが、報道のかたちとも密接につながってるということはありますよね。イラク軍の側にいることが出来ないという部分も含めて、対称性がないというか、戦争も報道も一方的に攻めるだけで。

 

渡辺浩 だから恐らくアメリカ軍はあらゆるところの略奪を黙認したんだと思いますね。そうしないと戦争らしい悲惨さが出てこないもん。

 

山崎 戦争にしないといけないから、アメリカは。

 

渡辺浩 そして、ついにそのことを撮れなかったんじゃないか、と今回の報道については思いましたね。ぱっと目には見えなかったり、ひそかに語られる事は、自分でもあまり大声では言えないですよね。それは確かに怖いことかもしれない。そしてそういうときに、キャメラマンはどうすべきか。

 

 キャメラマンとして問われてくるところですよね。ぱっと見た時に、目の前には撮るものは何もないように見える。でも、そこで目を凝らして、カメラを通じて見えてくる構造があるかも知れない。あらかじめ流されたイメージではない生の部分が見えてくるかも知れない。そこに賭けていく、それを映像として具体化していくという表現を求めていくのが、キャメラマンとしての姿勢ではないかと思います。

 

渡辺浩 それは分かるし、重い意見だけど、やはり難しいな。

 

 いや、それは基本的な志として、心の底には持っていた方がいいんじゃないかと。そういう意味です。そこの部分が欠けているのを感じているので。

 

山崎 そういうかたちでキャメラマンとしての意識を持ってる人が、現代の戦争の報道の場にどういうかたちで参加するかっていうことで言うと、そういう人が参加出来る体制というのはなかなか取られてないよね。

 

益子 それとさ、そういうふうに撮れる条件というか、どんどん管理が徹底されてくるなかでさ、自分の意志でものごとを発見して表現して行くっていうのは、やはりすごく難しいと思う。

 

渡辺浩 まあ、管理する側は毎日そればっかり考えているわけだから、キャメラマンはいつも別のことをやってるから(笑)

 

 確かにそうだと思います。でもそこはしたたかに対抗していかないと。三木茂という前例もあるわけだし。

 

川上 国家は過去の失敗に学んで上手にやっていくわけだから、キャメラマンも過去に学んでいかないとまずいですね。

 

山崎 どうかいくぐっていくかってね。

 

   了