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第一部 2.疑念-3

 久しぶりに明るい空がひろがったある晴れの日。
 ジェニーが城で過ごして一ヶ月半ほどたった日の朝、彼女はアニーと連れ立って中庭に面するサロンへ出た。サロンの半外となっているポーチから続く石段を降りると中庭に出られる。ただ、後宮の住人たちは衛兵がつきそっていないと建物より外には出られない。
 ジェニーたちはポーチに立ち、外の風を感じながらそこから景色を眺めることとした。出入口となっている場所には頑強な衛兵二人が中庭を向いて仁王立ちしているが、有事の時以外には後宮の住人たちに自分から声をかけないように命じられているため、彼女たちの気配に気づいていても無反応だ。中庭には人の行き来はなく、向かいの棟の入口をかためる衛兵たちの姿が見えるのみ。向かいの棟を何気なく眺めていると、不意にジェニーは誰かの声を聞いた。
「ジェニー嬢!」
 男の声がもう一度聞こえ、彼女は声のした方向、中庭の方に振り返った。彼女のいるポーチから斜め下にある中庭に、彼女を見上げる一人の青年が立っていた。久しぶりだったが、彼女は彼の顔を忘れていなかった。
「あなたは――サンジェルマン?」
 彼女が警戒して彼を見つめると、彼は無邪気な笑顔になって大きく頷いた。
「ええ、そうです!」
 笑うと、意外なほどにかわいらしく幼く見える。彼女はゴーティス王にかしづくこの男に良い印象は持っていなかったが、あまりの親しみやすい表情に、肩に入っていた力が抜けた。
「こちらにはお一人で?」
 彼は壁のすぐ近くまで来て、彼女を真上に見上げた。彼女の表情が少しだけ緩やかになったことにすぐに気ダウン メーカー
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づき、また笑顔になった。
「いいえ。アニーと一緒よ」
 彼女がそう言うと、侍女のアニーが彼女の後ろから姿を見せ、サンジェルマンに目礼した。彼も笑顔で頷き、ジェニーに向き直って再び笑った。人を引き込む笑顔だった。
「こんなところで、何をしているの? いつも、あなたはあの王と一緒だと思ったのに」
「私は常に王の側についているわけではないのです。散歩ですよ。ジェニー殿も、外に出られてはいかがです? 気持ちのよい朝ですよ」
 そこに常駐する衛兵たちが一斉に不可思議な表情をしたが、運良くジェニーには見えなかった。彼らの知る限り、サンジェルマンが単独で庭にいたことなど今までに一度もない。
「よかったら、ご一緒にいかがです? 中庭をご案内しますよ」 
 衛兵たちはお互いの顔を見合わせた。サンジェルマンが女を何かに誘う場面など、見たこともない。
 外出ということで気持ちが動かされたらしい主人ジェニーに気づき、後ろにいたアニーがあわてて彼女の横から顔を出した。
「サンジェルマン様? せっかくのお誘いなのですが、ジェニー様はこの後に用事がございまして」
 ジェニーは驚いて彼女に振り返った。用事など、何もない。
 すると彼女は、ジェニーに厳しい視線を素早く走らせ、口を開かせないようにした。
「まことに残念でございますが、いずれの機会に、王とご一緒に」
 アニーは愛想笑いも浮かべなかった。王の部下である彼が主人の女に妙な気をおこすわけもないだろうと信じながらも、かすかな猜疑心にさいなまれ、彼女は彼にくぎをさすつもりらしい。サンジェルマンは毅然とした侍女の口調に含まれる意味に気がついたようだが、表情に変わりはなかった。
「そうですか。残念ですが仕方ありませんね。それでは、またの機会を待ちましょうか」
 サンジェルマンはいかにも残念そうに笑った。
「城はもう慣れましたか? 食べ物はお口に合います? お困りのことがあれば何でも遠慮なくおっしゃってください」
 彼はなんだか、健気だった。彼のその雰囲気にほだされ、ジェニーは彼につい話しかける。
「それは平気だけど――ここは、随分と寒いところね。暖炉がなければ凍えそう。十月に雪が降ることなんて、私の故郷ではなかったわ」
 ジェニーがそう返すと、サンジェルマンが嬉しそうに顔を輝かせた。
「ええ、ヴィレールは北国です、あなたの故郷とちがって寒いでしょう? 私も故郷のベルアン・ビルからこちらへ越してきた年には、その寒さで体調をすっかり崩しましたよ」
「――ベルアン・ビル?」
 ジェニーがびっくりして声をあげると、サンジェルマンが穏やかに彼女を見つめた。
「あなた、そこに住んでいたの?」
 ジェニーが壁に身を乗り出して彼を見下ろすと、サンジェルマンの笑顔がそれに応えた。彼女の心がみるみるうちに明るくかわっていく。
「私も昔、伯母とそこに住んでいたの! いつまでいたの?」
「七、八歳の頃までですよ、もう二十年近くも前のことであまり記憶にはありませんが。――伯母とはどんな方です? もしかしたら、知っているかもしれません」
「本当?」
「ええ。お名前は?」
 ジェニーの隣にいる侍女が耳元で警告したが、彼女は侍女から体を離し、彼に答えた。
「私の叔母はジョセフィーヌ・ゲンスブールっていうの。聞いたことある? 小高い丘の上に建つ家に小さな息子と二人で暮らしているわ」
「ジョセフィーヌ・ゲンスブール――」彼が口の中でその名をつぶやき、遠くを見つめる。ジェニーは期待を込めて彼を見つめた。
「……いえ、聞いたことはないように思います。残念ですが」
 申し訳なさそうに口ごもるサンジェルマンを見てがっかりしたジェニーだったが、思いがけないところで共通の地域の話ができ、彼に対して幾分かの親近感がわき始めた。それが王の忠実な家来である男であったとしても、孤独で人との交流に飢えていた彼女にその気持ちが抑えられるものではない。
 次の日、昨日と同様にサロンに出たジェニーは、ポーチの南側の壁に寄りかかって外を見ていた。そして、またもや中庭を歩いてくるサンジェルマンと出くわした。彼女を見つけた彼が壁の向こうからにっこりと笑いかけ、彼女は思わず微笑んでしまった。一緒にいたアニーはいい顔をしなかったが、思いがけない再会に、ジェニーはなんだか嬉しかった。

 ジェニーがサンジェルマンと偶然に再会した一週間後、その日は午前中から複数の統治区の代表者たちとの謁見があり、ゴーティス王は終日忙しく過ごしていた。
 国を東・西の二つに分け、三ヶ月単位の城への定期報告とは別に年一度、各地域の統治者たちには城での謁見会が義務づけられている。今回は東部の番で、四つの統治区からの代表者たちが城内に二日間滞在する。謁見会は戦のない冬、雪で移動が困難になる前の初冬に行うと決まっている。一年前に東部の統治者全員を刷新して以来、今回が初めての顔合わせだ。
 昼食会や夕方の宴には出席はしないが、大勢の前での謁見にはサンジェルマンも同席する。謁見の間での報告はおおよそ明るい内容ばかりだった。午前の部で各地の代表者一行のメンバーを観察し、男たちの間にその場に似つかわしくない一人の若い娘がいることに、彼は違和感と危機感を覚えた。ゴーティス王の好みの女性ではなさそうだが、王の興味を引いているのは確かだ。彼らの滞在が平穏無事に終わるようにと、彼は願わずにいられなかった。

 午前の部が終わり、一行が王や側近とともに昼食の席へと引き上げた。それにともない、サンジェルマンも共用の食堂に戻る。そこは身分の高い近衛たちがつめる場所でもあり、彼も食事や休憩時には使用を許されている場だ。彼が食堂に顔を見せると知った顔があり、先客たち二人はちょうど食事の皿を用意してもらっているところだった。彼は召使の一人に声をかけ、食事の用意を頼んだ。
「謁見は滞りなく済みましたか、サンジェルマン様?」近衛兵の年上の方がそう問い、彼に微笑んだ。
「ええ」
 彼は微笑み返すと、男のななめ向かいに席を取った。女が彼の分の皿を置き始める。
「あと二日間は王も統治者たちとつきっきりか。今回は何事もなく、無事に終わってもらいたいものですよ」
 男の言葉は言外に不安を含んでいて、隣の男もその場にいた女たちも、さっと口をつぐんだ。一年前の謁見会の際での、王の前に進んだ代表者の一人が王に切りつけるという暗殺未遂事件を示しているのだろう。それは、誰もが知っている事実だ。 
「警備を強化なさったと聞きましたが?」
「いつもと変わらないように見えましたね。今回の使者の方々は、非常に友好的なご様子だった」
 さっきまで見ていた統治者たちの表情と態度を思い出しつつ、サンジェルマンは彼に微笑んだ。
 召使たちがパンの入った籠、バターとチーズを持ってきてテーブルに置いた。小麦色の丸パンを見ながら、サンジェルマンはいまだ記憶に新しい去年の暗殺事件後の事を思い起こしていた。その事件は人々にとって悪夢として映っているが、悲惨な出来事というだけで終わったのではない。

 一年前の謁見の間で、ゴーティス王に襲いかかった無謀な男はすぐにひっとらえられた。その際に不運にも腕に軽傷を負った王は烈火のごとく怒り、見せしめのために男の公開処刑を命じた。かわいそうに、その男と付き添い達は、王がケガをしたのと同じ、右手の肘から下を切り落とされた姿で登場し、見物する民の前で首を一撃で落とされた。切られた首はしばらくの間、見せしめのために街の広場に吊るされた。また、故郷に住む彼らの家族は全員が住まいを追われ、一人残らず王軍によって命を落とした。
 その暗殺未遂事件から少したって、ゴーティス王は事件の再発防止と自分により負担のない統治を考え、国で製造・発行する共通の貨幣を全統治区で使用するよう命じ、各統治区の豊かさに応じた額で国へ貨幣または物で納税するような仕組みを作った。各統治区に五年を上限として国からの統治者を配置し、各地区で住民から税金をとれるようにし、ある程度までの自治権利を与えた。
 また、武術や運動能力のある者は、一定の試験の結果によって中央で訓練を受けられる資格を与え、訓練を終了したものには職を紹介するようにした。軍に入隊する者には家族にも手当てが与えられた。これにより、貧しいが能力のある若者が中央に集まるようになり、軍の増強が進み、中央の人材が豊かになった。
 ゴーティス王の統率するヴィレール軍の侵略は非情で人々から怖れられていたが、その後の統治によって地域の秩序が保たれ、富んでいく。征服される前よりも各地区が経済的に改善されているのは、午前中の謁見会での報告の中でも明白だった。
 ゴーティス王の優れた統治は、自らが率いる破壊行為とは相反するものだ。王が精神的な平安をもっと得られれば侵略行為もなくなり、その統治能力は惜しみなく発揮され、民からの賞賛と尊敬を得られるのだろうに。サンジェルマンはゴーティス王の少年時代を思い出して、胸に鋭い痛みを感じた。

 テーブルにつく三人の男たちに具だくさんのシチューが配られた時、部屋にもう一人、仲間がやってきた。サンジェルマンと同じく謁見会に出席していた、近衛隊副隊長のライアンだった。
「ライアン副隊長!」
 声を掛けて敬礼した男より先に、ライアンは先客として座っていたサンジェルマンに目を留めた。彼とこの場所で出会うのは初めてな気がする。彼もライアンと目が合い、静かに目礼した。サンジェルマンの前の二人は席から立ち上がっている。
 部下に座るように合図したライアンはサンジェルマンの隣にやってきた。スプーンを持っていた手を止め、サンジェルマンがライアンを見る。彼らはゴーティス王の剣仲間であり、子どもの頃からの知り合いだ。ライアンが目礼したのに応え、彼も小さな笑みを返した。
「……きみとここで会うとはめずらしい」
「時々、利用させてもらっていますよ。副隊長こそ、ここには来ないと思っていました」
「そうでもない。私も時折はここに立ち寄る」
「そうでしたか」
 ライアンは召使に声をかけて自分の食事の用意をいいつけると、サンジェルマンの横に腰をおろした。既に食事がきていたサンジェルマンたち三人は、シチューに口をつけ始める。ライアンもパンに手をのばし、ナイフでそれにバターを塗り出した。女が彼の前にパン用の平皿をそっと置く。
 それ以降の彼らは口をきかず、食堂に微妙な緊張感と沈黙がぎこちなく広がった。近衛兵の二人は落ち着きなく、前に座る彼らをそっと伺った。
「――そういえば、副隊長殿は今宵の宴の場には出られるのです?」
 ライアンの方を向くでもなく、サンジェルマンがなにげなく訊いた。
「ああ」
 宴に参列するのではなく、警備の責任者としてその場に目をひからせるためだ。彼の返事を聞いて安心したサンジェルマンは満足そうに頷いた。
 ライアンは彼に何かを訊きたいような素振りを見せたが、ちょうど自分の食事が運ばれてきたために遮られてしまった。そして彼らの間にはまた、ぎこちない沈黙が流れた。近衛兵の二人も食事に夢中な振りをした。

 しばらくしてサンジェルマンがシチューを半分ほどたいらげた頃、ライアンが口をきいた。
「ところで、サンジェルマン? オーランジェの一行に若い娘が一人混じっているのに気づいたか?」
「ええ、おりましたね。あの場には不相応ですが」
 ライアンを見たサンジェルマンは彼の瞳を見て、彼が自分と同じ懸念を抱いていると直感的に気づいた。そして、すっと口を結んだサンジェルマンに、ライアンも彼が同様の考えを持っていることに気づく。
 しばらくお互いを見た後、サンジェルマンが彼に言った。
「……娘の一行に注意を払ってください」
 彼は、とっくに想定していることを改めて言われて少しむっとしたが、王付きの役である男の口から出ることとしては当然だと考え直した。ライアンはめったに笑わない者として有名だが、彼はその時、無理してほほ笑みを作り出した。
「心得た」
 そんな彼らの奇妙で微妙な雰囲気に気疲れした近衛兵二人は、あっという間に自分たちの食事を胃に流し込み、上官の前から退散することにした。彼らがあわただしく去った食堂内にはさらに静寂が流れ、皿にスプーンがあたる音と召使の女たちの足音に支配された。
 足早に食堂を抜けて廊下をしばらく歩いてから、近衛兵たちは大きく胸をなでおろした。
「あああ、緊張しましたよ!」
 若い方の男が大げさに手をひろげ、肩で息をついた。年上の男も同意し、大きく伸びをしている。
「副隊長が来るとは思わなかったなあ! サンジェルマン様も間が悪かった」
「あの二人は昔から知り合い同士だっていうのに。仲が悪いんですか?」
「そりゃあ、な。お二人は気まずいだろうさ」
 彼のやけに確信をもった返答に、年下の男は不審そうに彼を見た。
「あれ、断言しますね。なんでです? 昔やったひどい喧嘩を今も引きずっているとか?」
「え? あ、いや。別に」
 彼の質問に男は急に口ごもる。その反応に彼はますます不審そうな顔をする。
「なんです? 言ってくださいよ」
 彼は立ち止まって男の腕をつかんだ。バツの悪そうな顔をした男は、困惑して彼を見た。
「――おまえ、本当に知らないのか?」
「もしかして、皆も知っている話なんですか? やだな、じゃあ、教えてくださいよ!」
「いや、だけどなあ」
「僕だけが知らないなんて嫌ですよ! 教えてください!」
「わ、わかった、わかったよ! だから、手を放せ。」
 彼は周りをきょろきょろと見回すと、大きな息を吐いて若い近衛兵の腕を振り払おうとした。
「俺が話したってことは絶対に内緒だぞ、いいな?」
「もちろんですよ!」
 男がまた、ため息をついた。
「ちょっと前の話だ」
 彼の小声で話す内容を聞き漏らすまいと、男は歩き始めた彼を追った。
「副隊長の妹の、悲劇的な最期を聞いたことぐらいあるだろ? ちょうど、五、六年前かな。ライアン家の家の塔から身投げして亡くなったっていう」
「ええ、聞いたことはありますよ。当時、副隊長はかなり悲しまれたそうですね。あちこちから引く手あまたの美しい娘だったとか?」
「そう、俺も一度しか見かけたことはないが……。それでも忘れないさ、そりゃあかわいらしい娘だった。副隊長と同じ髪の色で、顔が小さくて、深い青色の目をしていてさ」
「副隊長と同じ血筋なんですから、おきれいだったんでしょうね」
「まあな。それほどの器量もあって、身分も申し分ない。その少し前、当時はまだ王子だったゴーティス王との縁談が彼女に持ちかけられてな。おまえは知っているかどうか、当時は、次期王となりえるゴーティス王子の妃の座を争って、年頃の娘を持つ国内外の貴族の間で熾烈な争いがあったんだ。副隊長の家も状況は同じだったはずだ。だが王家とも繋がりがあり、信頼を勝ち得ていたライアン家は、他家より勝算があった。それに、これは噂だけだが、当時の王子が副隊長の妹を気に入っているという情報もあったんだ」
「はあ。そうだったんですか」
 男よりも十も若い彼は当時の状況を知らず、のん気に相槌を打つ。
「ところが、だ。これは後から明らかになったことらしいが、当時の彼女はサンジェルマン様と密かに恋仲だったそうだ。お二人の家柄だって釣り合うし、近いうちの結婚をお考えだったらしい」
 彼が続ける話に、結末を想像した男の顔が徐々に硬くなっていく。
「そういった状況の中で、ライアン家が王妃を輩出できる可能性を捨て、サンジェルマン様に娘を渡すと思うか? 俺たちが考えたって、結果は火を見るより明らかだ。彼女は悩んだあげく、誰にも、サンジェルマン様にも告げることなく、実家の塔にのぼって自らの命を絶ったそうだ」
 若い男の顔に浮かぶ恐怖と驚愕を見て、彼は言葉をそこで切った。
「サンジェルマン様が彼女の葬儀に駆けつけ、そこで事の真相がわかったそうだ。それを境に副隊長とサンジェルマン様は交流を断たれたと俺は聞いている。……だから、そういう経緯であのお二人は、会うと何となくぎこちないのさ」
 サンジェルマンがゴーティス王の腹心として選ばれたのはそれから数年後のこと。それも、何とも皮肉なことではあった。