N0771E-102 | chuang209のブログ

chuang209のブログ

ブログの説明を入力します。

更新が滞ってしまいまして。
とりあえず、1話分のみアップします。
次回の更新がラストとなります。
********************************************
第二部 7.王の帰郷-10

 北の関所前は出国する人々でごったがえしていた。旅行者や行商隊が多く、街の市場並みの混雑だ。手続きを待つ人々が長い列をつくり、待ちくたびれた老女が疲れた様子で地面に座っている。
 関所の門の脇ではこの地区の軍の者たちが集結し始め、武器を手にした庶民たちの姿もちらほらと見えた。だが、国境沿いの町は軍の部隊がいる日常に慣れていて、彼らの物々しさは街の喧騒の中にすっかり溶け込んでいる。ユーゴが心配したような、興奮した民にジェニーが囲まれる騒ぎは起きなかった。

 国境線を踏み越えても、ジェニーの周りに広がる風景に何ら変わりはなかった。行き交う人々の顔に違いがあるとも思えない。だが、国をまたいだというだけで、ジェニーが吸い込む空気は微かに冷たく、そよぐ風はヴィレールのように優しくない。
 ローレンの道案内に従い、一行は東に道をとった。進む道の正面には万年雪を冠る高い山、それを守るように山が連なっている。目指すマキシム王国はその山脈の中だ。山の小国はヴィレールより標高が高く、春を迎えたばかりの季節らしい。
“ジェニー”
 急に王に呼ばれた気がして、ジェニーは山脈を見渡した。頂上だけに緑が生い茂り、青々とした木々をむしり取られた後のような白い山肌が見える。緑に覆われた山ばかりではない。
“ゴーティス王?”
 ジェニーが心の中で王に呼びかけ、山脈の端々まで目で追っても、彼の姿は現れない。声も聞こえない。他の仲間たちは、何も感じていないようだ。
 ジェニーは目を瞑り、左手で王の剣の柄を握った。
(私たちが行くまで、絶対に無事でいて)
 王が目にしただろう、白い雪を頂く山を見て、ジェニーは彼の無事を強く願う。


 小さな滝の裏側にあった城へ通じる道への入口は狭く、周囲を崩し、落木で隙間を詰めることで穴は完全に塞がれた。ジェニーたちが、そこから山腹にある第二の入口に移動できたのは、既にエルメス メンズ バッグ
エルメス バッグ 価格
エルメス バッグ 中古
日が傾いた頃だった。
 ローレンは直立する大木のてっぺんを指差し、皆に言った。
「あそこに月が見えたら塩坑に入っていい。それまでは、採掘者たちが作業しているはずだ」
 ローレンは幾分緊張した面持ちで、ジェニーを見た。夕暮れが近づき、木々の上にある狭い空の青さは薄れていたが、月はどこにも見えなかった。
「俺たちは今夜のうちに城に入る。鍵を開けるのは城中が寝静まる真夜中だ。それまでは入口付近で待機してるんだよ」
 ジェニーは息を鎮め、兄に頷いた。
「わかったわ」
 その返答を聞き、ローレンの瞳が笑う。
「ジェニー、今ならまだ引き返せるぞ。その気はないのか?」
 ローレンは笑っていた。妹の頑固な性格を、彼は幼い頃から理解している。ジェニーから“やめる”という返事を引き出せないことは、彼はとっくに分かっているはずだ。ジェニーは首を横に振った。
「ないわ、ローリー」
 そうだろうな、とローレンは呟き、ジェニーの手を取った。
「本当に、おまえは一度言い出したら人の意見を聞かないな。……あのヴィレール王はそこが気に入ったのかな」
「それはわからないけど、頑固だ、とはよく言われるわ」
 ローレンは肩をすくめ、ジェニーの手を引き寄せた。
「そうだな。頑固で困るよ。ママにそっくりだ」
 ジェニーは兄の肩をそっと抱き締めた。すると、ジェニーの手を取る彼の左手に、力が加わる。
 兄が、ヴィレールの襲撃以降、一度も顔を会わせたことのない両親に思いを馳せていることは、ジェニーにも痛いぐらいに分かった。そして、妹ジェニーの為とはいえ、仇であるヴィレールの王救出に力を貸す役割を担うことで、彼が旅の間に何度も葛藤していたのを、ジェニーは気づいている。
「ローリー、入口の鍵を開けたら……その足で城外に逃げてね」
 兄の体が大きく震えた。
「おまえを置いて?」
「うん。私には皆がいるから大丈夫。ローリーは私たちを城内に入れてくれるだけで十分よ。だから、私たちが通ってきた塩坑から外に逃げて」
 ジェニーが背後に並ぶ仲間たちに振り返ると、アドレーが笑顔で大きく頷いた。ケインもユーゴも納得した様子だ。ライアンは渋面だったが、異論はなさそうだ。サンジェルマンもジェニーに同意して、ゆっくりと頷いた。
「そうしてもらおうか。剣を持てぬなら、逆に我々の足手まといになる」
 顔を上げ、サンジェルマンを見たローレンの瞳がにわかに凍った。だが、彼は反論しようとしない。
 それからローレンは、ジェニーの額に唇を寄せ、ジェニーを抱き締めた。
「いいよ、おまえの言うとおりにしよう。俺が命をかけて仇を救う義理はないからな。おまえたちと入れ替わりに俺は外に出る」
「うん」
「でも、ジェニー、もし何かの手違いで俺たちが会えなかったときは……いいな、城の最上階を目指すんだ。マキシム王は大概、その階にある部屋に収集した奴らを閉じ込めてる。ヴィレール王がいるのもおそらく、そのうちの一室だ」
「わかったわ。万が一、ローリーに会えなかったときはそうする」
 ローレンが笑顔を作った。寂しそうだが、誇らしそうな笑顔だ。
「おまえの無事を祈ってるよ、ジェニー。気をつけて」
「ローリーも気をつけてね」
 ジェニーはローレンの体に両腕をきつく巻きつけた。子どもの頃から、ジェニーの不安を取り除いてくれたのはいつも兄だった。ヴィレールの襲撃前夜、不安だったジェニーがもぐりこんだのも兄ローレンの寝床だ。兄の温かな体に安心し、優しい笑顔で落ち着きを取り戻した経験は、それこそ数え切れない。
 ローレンは最後にジェニーの瞳をのぞきこむと、感傷的な想いを振りきるようにジェニーの体から離れた。サンジェルマンが彼の横に並んだ。
「城内で会おう」
 ライアンの言葉にサンジェルマンが微笑んだ。
「気をつけてね」
 サンジェルマンはジェニーにも同じ笑顔を向けた。
「そちらこそ」
 マキシム王国の関所には、日没までには着けるという。サンジェルマンとローレンは馬に飛び乗った。
 塩坑の入口前で、皆は二人を見送った。下り坂を行くサンジェルマンは馬上で二度、仲間たちに振り返った。しかし、彼の隣にいるローレンはずっと仲間に背を向け続け、一度も、後ろを振り返ることはなかった。



 岩の裂け目のような穴から入った塩坑内は水があちこちから滴り、ジェニーは小さな水溜りに足をとられ、何度も滑りそうになった。だが、その都度、先頭を歩くケインが振り返り、ジェニーの無事を確認してくれた。地下牢に幽閉されていた数年間の経験から、彼は暗闇に目がきき、誰よりも早く遠くの物音も聞き分けられる。
 思い起こせば約三年前、追っ手を恐れ、正面に現れるべき出口を求め、二人は必死に王城の地下を歩いていた。ケインは後ろを歩くジェニーを気にして、今と同じように何度も振り返った。そのときのお互いが置かれた状況、お互いに対する気持ちは今とはまったく違うけれども、二人がこうやって再び暗闇を進むことになろうとは、ジェニーは思いもしなかった。
「なんだか……懐かしい気がするよ」
 振り返ったケインの顔は、彼もジェニーとこの場にいることが信じられない、と物語っている。懐かしいと口にしながら、ケインが決して望んでいなかった状況だ。
 ケインが旅に合流した当初、彼は何回か、「王の救出は軍に任せればいい」とジェニーを説得しようとした。国境を抜けてから、彼がジェニーを説き伏せようとしたことは一度もないが、彼が王救出に乗り気でないことは、ジェニーが彼と交わす会話の端々から感じられる。でも、彼の過去を鑑みれば、それは無理もないことなのだ。
 ケインは王家に生まれた者として、明るい日の光の下でどんな不自由とも無縁な生活を送るはずだった。それを突然に一変させたのは、兄であるゴーティス王だ。ケインは「今はもう憎んでいない」と言うが、王に好意的な感情を持ってはいない。
 兄である王を窮地から救出するため、ケインが自らの不遇な時期を思い出させるような暗闇をこうして辿るのは、彼にとって納得がいかないことだろう。


 ジェニーが地面に腰を降ろし、何時間が過ぎただろう? それとも、数十分?
 明かりがないというだけで時間の感覚が狂う。だが、突入の時間が刻一刻と迫っているのは確かだ。坑道の天井からときどき滴り落ちる水の音が、皆の間にはりつめた緊張をかろうじて和らげている。
 皆が会話を控えているのは、敵国の城の住人たちに気配を悟られるのを恐れるというより、高まる緊張のせいだ。ケインが伏せた顔をあげたり視線を扉に向けたりするたび、皆の緊張が一気に引き上げられる。しかし、現在までのところ、ケインが立ち上がりそうな様子はない。
 坑内は冷えており、地面に密着するジェニーの足や腰から次第に熱が奪われていった。一行の中でもっとも寒がりなのは、間違いなく、ジェニーだ。
「あんた、もっと俺にくっついていいよ」
 ジェニーの肩に触れたのはアドレーの腕だ。暗闇に慣れたジェニーの目が彼の視線を受けると、彼は自分の腕をたたいてみせた。
「寒いんだろ? 俺の体はあったかいからさ、くっついたらいい。シヴィルの未来の嫁さんに風邪でもひかれたら困るからな」
「ありがとう」
 礼を言う前に、ジェニーの冷えた腕はアドレーの温かさに吸い寄せられ、ジェニーは彼の体に寄り添った。
「でも、私が彼と結婚することはないと思うわ」
 アドレーがジェニーを見つめ、眉をひそめる。
「結婚しないって、なんで? あんたは貴族だったよな。身分的にも特に問題ないんだろ?」
 鋭く細い棒で突かれたときのように、ジェニーは喉に小さな痛みを感じた。そのせいか、次に出たジェニーの声はどこか弱々しかった。
「結婚は彼が決めることじゃないもの」
 アドレーが目を丸くした。
「なんだそりゃ。あんたたちは愛し合ってるんだろ。国王だって一人の人間だろうに、シヴィルはそれでいいのか? あんたも?」
「二人とも承知してるわ」
 ジェニーが即答すると、扉の逆側からケインが口を挟んだ。
「アドレー、王の立場ともなると、庶民には理解しがたい事情があるんだよ。結婚相手に恋愛感情があるかどうかなんて重要じゃない。国益や王家のことも考えなきゃならないんだ、仕方ないよ」
 アドレーは憤慨し、だが、大声をあげるのだけはかろうじて抑えたようだ。ケインに振り返り、これ見よがしに深いため息をつく。
「庶民の俺には貴族さまの考えは理解できないね」
「そう? けっこう単純だよ。家を守り、一族を繁栄させるために結婚するんだ」
「そりゃあつまり、彼女の家はシヴィルにふさわしくない家格ってことか?」
 ケインは慌てて否定した。
「そうは言ってないよ。王は特別な立場だから、結婚にも政治的配慮が必要なだけだ」
「へえ? じゃあ王以外、たとえば王弟なら、彼女との結婚にそんなに障害がないわけだ?」
 アドレーはケインを見ていた。事の成り行きを気にしてか、ライアンがジェニーに一瞥をくれる。
 ケインが王の実弟であることは、アドレーに伏せられていた。彼だけでなくユーゴやローレンにも。ケイン本人も自分の正体を明かしていない。
「うーん、そうだな、王みたいな問題はないけど……」
 ジェニーがアドレーの体越しにケインを窺うと、ちょうど、彼がにっこりと笑うところだった。
「でも王弟は、自分を見てくれない女性を妻にしたくないはずなんだ。彼は、妻に愛情を感じなくても平気かもしれないけど、妻からは気にされて愛されたいんだよ。勝手な人なんだ。
 でも、ほら、ジェニーは王しか見てないから――もうずっと前から王だけを見てるから、王弟はそんな女性を結婚相手には選ばないよ。彼をよく知る私が保証する」
 ジェニーはアドレーの体の陰に再び隠れ、息を止めて、暗い天井を仰いだ。喉が急に渇いて、ジェニーは上から滴り落ちてきそうな水滴を目で探す。だが、扉の前に広がる天井は平らに削ってあり、水滴らしき光はどこにも見えない。

“そんなに大切?”
 ジェニーが王の剣の柄の先端に唇を押し付けていたとき、ケインが尋ねた。北の国境沿いの町で、ジェニーがライアンと剣の練習をし終わったあとのことだ。
 王の剣を実際の剣と初めて合わせたその日、ジェニーは異常なほどに気分が高ぶっていた。国境を前にしたせいかもしれないし、王の剣を扱う緊張感があったのかもしれない。その高揚を鎮める意味で、ジェニーは王の手助けを借りようと剣に口づけたのだが、ケインは違う解釈をしたのだろう。
“そんなに大切?”
 ケインはジェニーにそう問いかけ、からかうように笑っていた。
 今思い出してみれば、彼が「王の救出を軍に任せればいい」と口にしなくなったのは、それ以降だ。ジェニーは毎夜、剣に王の無事を祈っていた。ケインも、その光景を一度や二度、目撃したことがあるはずだ。ジェニーが剣に願いをかける姿を見て、ケインは、ジェニーにとって王がどれほど大切なのかを実感したのだろう。
 あのとき、ケインは「そんなに王が大切?」とジェニーに尋ねたのだ。違う解釈をしたのはジェニーの方だったのだ。
(どうかお願い、無事でいて。お願い。お願いだから……)
 ジェニーが王の剣の柄にひそかに手を触れると、急に、それが熱を発したように感じられた。


  *  *


 サンジェルマンとローレンは、何の苦もなく国境を越え、マキシム王の城にすんなりと通された。関所と王城の門番はローレンと顔見知りで、彼らはローレンに通行証の提示すら求めなかった。ローレンは勝手知ったる自宅のように王城の廊下を歩き、厨房近くの狭い一室にサンジェルマンを呼び入れた。
 あまりにも簡単に入城が許されたことで、逆にローレンが疑わしく思える。サンジェルマンは人々の話す言葉をほとんど理解できず、彼らと自然に会話するローレンを見ると、彼が本当はマキシム側の人間だと思えてならなかった。彼がサンジェルマンたちに指示した突入計画は、実は失敗することを前提に練られた、マキシム側の策略ではないのか?
 部屋にいた下働きらしき少女が退室する際、同情するようにサンジェルマンの顔を見上げた。城内に入り、人々の顔に感情らしき感情を見たのは、それが初めてだ。
「さっきの女……同情したように私を見なかったか?」
 ローレンが靴を脱いでいた手を止めた。脱げた靴を床に転がし、彼は不敵な笑みを漏らす。
「ああ、彼女はあんたがマキシム王への献上品だって知ってるんだよ。ここでは余所者が警戒されるし、あんたも悪くない外見だから、そういった扱いにしたんだ。もちろん嘘だけど。おかげで、どこも俺たちを簡単に通してくれた」
「それは――おまえが献上品となる男を連れて、普段から頻繁に王城を訪れているという意味か?」
 ローレンはもう片方の靴と格闘するのをやめ、じろりとサンジェルマンを見返した。
「それはカイルの分野だ、俺じゃない。ただ、新規取引を持ちかけるときは、王に献上品を持参するのが定例なんだ。俺がそうしたところで、ここの奴らはちっとも驚かない」
 ローレンはサンジェルマンの後ろにある木の長椅子を指し示した。
「真夜中までまだ時間がある。長い夜になりそうだから、少し休めば?」
「眠るつもりはない。王の安否がわからぬのに眠れはしない。おまえから目を離すわけにもいかない」
 ローレンはサンジェルマンをちらりと見ると、苦労して脱いだ靴を長椅子の下に放り込んだ。
「王ならまだ生きてるよ」
 サンジェルマンは瞠目した。
「生きておられるのか!」
 安堵したあまり、大声が滑り出て、サンジェルマンは外を気にして扉に振り返った。だが、扉の外を通る誰かの足音は彼の声で止まることはない。扉は固く閉ざされたままだ。
 サンジェルマンはローレンの瞳をのぞきこんで、声をひそめて尋ねた。
「嘘ではなかろうな? 王が今も無事だというのは本当だな?」
 ローレンは目をそらさず、サンジェルマンを見つめ返した。いかにも不愉快そうだ。彼の瞳の放つ輝きがジェニーと共通している。
「ああ、残念ながらな、本当だ。さっきの彼女がそう言ってた。思ったとおり、王は最上階の突き当たりの部屋にいる」
「……そうか!」
 サンジェルマンは喜び、両手を組んで神に感謝の意を述べた。すると、ローレンがサンジェルマンの組まれた両手をじっと見つめながら、ひとり言のように漏らした。
「王が生きてると知ったら、ジェニーもあんたみたいに喜ぶんだろうな」
 ジェニーの身を案じているのだろう、ローレンは顔をくもらせ、サンジェルマンの視線に合うと、気まずそうに目をそらした。
「死ぬかもしれないのに、あんな男のためにこんなところにまで……」
 そして、妹が仇を愛する事実を現実から閉め出そうとでもするように、ローレンはぎゅっと目を閉じた。目をそむけたところで事実は変わらないのに。細かく揺れ続ける彼の閉ざされた瞼は、彼が胸に抱える葛藤だ。
 サンジェルマンは背後にあった椅子に静かに腰を降ろした。剣を椅子の上に置く音に反応し、ローレンが顔を上げる。
「そもそも、おまえが『あんな男』と呼ぶ王は、御自らジェニーを救おうとされたために、こんな城に連行されたのだ。おまえの妹はそれを知りながら、王の帰りを黙って待つような女か?」
 ローレンが目をすがめた。サンジェルマンも同様に目をすがめた。
「……いや、黙って待つなんて、ジェニーには無理だろうな。あの子は純粋で、一途な子だ」
 サンジェルマンは同意した。
「王も同じだ。一途さゆえ、今回のような事件に至ったのだろう」
 ローレンが失笑した。
「王が一途だっていうのは、あんたが、あの逃亡犯だか王弟だかに話してるのを聞いた。それを信じる気はないけど、もし全てが本当だとしたら、王は、世間の評判どおりにジェニーを愛してることになる。……でも、とても信じられないね」
 それから彼は、サンジェルマンからの一切の質問を拒むように背を向け、床に敷かれた毛足の長い敷物の上に体を横たえた。


 極度の緊張感の中では、時間の流れなど、あってないようなものだ。隣接した厨房から完全に音が消え、廊下が無音の世界に変わるまで、サンジェルマンとローレンは何時間待ったのだろう。
 地下に通じる階段付近はひと気がまったくなかった。サンジェルマンの剣もローレンが刃先に毒を塗った短剣も、出番がない。ヴィレールの王城とは異なり、衛兵の数が少ないようだ。
 サンジェルマンは今もなお、ローレンをどこかで信じきれない。だから、彼が隠し持つ短剣がいつ自分の喉元に食い込むのかと、ずっと警戒している。
 二人は地下にある貯蔵庫のような一室に忍び込んだ。サンジェルマンが見張りを担当し、ローレンが秘密の抜け穴に入る扉の鍵を開ける。開けるといいながら、実際は、ローレンは扉を壊すのだと言う。彼は動かない右手で扉を押さえ、自由がきく左手のみで器用に蝶番を外している。
 サンジェルマンが何気なく扉を眺めたときだ。
 いきなり扉が開き、長身で手足が長く、痩せた衛兵が現れた。二人が部屋を出て、最初に出会った人間だ。足音がまったくしなかった。
 男が何か叫んだ。サンジェルマンには理解できない言葉だ。
 サンジェルマンが剣を上げた、その横を、ローレンが何かを叫びながら男のもとに駆けていった。ちらりと振り返った彼の顔は――なんて得意げなのだろう!
「待て、ローレン!」
 サンジェルマンは剣を手にローレンのあとを追う。
(なんてことだ、まんまと奴に騙されるとは!)
 衛兵は繰り返し何かを言いながらローレンを手招きし、サンジェルマンに注意を向けた。手の長さ、つまり、剣の届く範囲の広さでは、サンジェルマンが絶対に不利だ。
 が、ローレンを迎え入れた衛兵が、不意に前傾姿勢をとる。
「ローレン!」
 ローレンが、横にいた衛兵が振り上げようとした剣を避け、その腹を手で押した。衛兵は剣を落とし、後ろに倒れていった。その喉には銀色の小さな煌きが見えた。
 サンジェルマンがローレンのもとに駆けつけると、彼は左手で腰の剣を抜いた。剣の扱いにすっかり慣れている、無駄のない動きだ。それから、ローレンはサンジェルマンの顔を見ることもせず、開放されていた扉の外に出た。
 ――誰かいる――!
 サンジェルマンが人の気配に気づいたのと、ローレンが剣で何かを振り払ったのは、ほぼ同時だった。声もあげずに床に崩れ落ちたのは、二人目の衛兵だ。見事な剣の腕前だ。
「あんたに守ってもらう必要なんか、ないんだよ」
 だが、ローレンの得意そうな顔も数秒ともたなかった。どこから湧き出てきたのか、次の敵たちが階段を駆け降りてきたのだ。サンジェルマンは剣を構えた。
「ローレン、鍵はどうした?」
 ローレンは、にやりと笑った。
「もう開いてる」
 そして、今度は、彼はサンジェルマンを力任せに突き飛ばした。
「奴らをここから引き離せ、サンジェルマン」
 囁いたローレンは、再び、サンジェルマンには理解できない言語で何かを叫びながら、敵に向かって走っていく。
 サンジェルマンは急いで床から立ち上がった。一人、二人、剣を持った衛兵は三人だ。彼らの持つ明かりに照らされた顔がどれも同じに見える。表情がないのだ。
 彼らはローレンを通り過ぎ、一目散にサンジェルマンに走り寄ってくる。

************************************************
読んでくださって、ありがとうございました。