水口城のあとに向かったのは坂本城です。
まずは予備知識
Q.築城主は?
A.明智光秀。
1751年の比叡山焼き討ち後に、織田信長に滋賀群5万石を与えられて築城。
山崎の戦い後、丹羽長秀が城主になる。
賤ヶ岳の戦い後、浅野長政が城主になる。
Q.丹羽長秀って?
A.柴田勝家に次ぐ織田家家老。
秀吉の苗字“羽柴”はこの二人からとったと言われている。
山崎の戦いと賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に参戦。その功績として若狭地方に125万石を与えられた。
Q.浅野長政って?
A.小谷城攻め(浅井長政)や賤ヶ岳の戦いで活躍。
のちに豊臣政権の五奉行(官吏)の筆頭となり、主に司法を担当した。
Q.城郭構造は?
A.琵琶湖に面した平城(水城)
西側は湖、東は比叡山がそびえる天然の要塞。近世では宿場町、港町として繁栄していた。
天守構造は不明だが、ルイス・フロイスの『日本史』には“安土城に次ぐ“豪壮華麗”と記されている。
同じく琵琶湖に面した“膳所城”“大津城”と構造が類似している(本丸が湖に突き出している)
Q.現状は?
A.遺構らしい遺構は残っていない。小さな公園がある。石碑が点在している。
西教寺(明智光秀の供養塔がある)の総門は坂本城の門を移築したものだと言われている。
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ではでは、レポート開始~
比叡山坂本駅から歩くこと数十分。
見えてきた公園は釣り人でにぎわっていました。
その一角にたたずんでおられる、初代城主殿。
写真の設定を変更するのを忘れて名前がつぶれてました
桔梗の家紋、ちょっと見づらいですね~。
その後ろの月(?)の前立ては何を示してるんでしょうか?
惟任日向、十兵衛という通称のほか、
キンカンや禿というあだ名(悪口?)で有名な“明智光秀”
ただ単にハゲていたのかと思っていたのですが、
“光秀”の漢字から駄洒落でつけたというのには驚きました。
さすが信長様!これは座布団1枚 ですね
調べでは「公園に石垣がある」とのことだったので、見つけて撮っていると
( ・ω・)「それ、お城の石垣じゃないよ」
kai「え!?」
( ・ω・)「それは田んぼの石垣です」
kai「お城のはないんですか?」
( ・ω・)「北のほうにあるけど、ないよ」
埋めなおしてしまったのか、水没してしまっているのか、とにかく見ることはできないようです。
ちょっとショック・・・
でも田んぼに石垣なんて使う?
“親切”なんだけど、ほうっておいて欲しかったなぁ~
遠目から
・▽・)「あー、お城の石垣じゃないのにありがたがって撮ってるよ~。ま、知らぬが仏だな」
と、暖かい目で見ておいて欲しかった。
まるでACのラジオCMですね
坂本周辺には“穴太積(あのうづみ)”の石垣が見られるとのことで、
市内をふらついていましたがどれがそうなのかよくわからず
時間が余ったので、明智光秀のお墓がある“西教寺”に行くことにしました。
(比叡山延暦寺と迷いましたが、寒そうだったので・・・・)
惣門が移築門だというのすっかり忘れてて、撮るの忘れてしまいました
途中で見かけた石垣郡
左側は個人のご自宅もあるようですが、穴太積でしょうか?
比叡山坂本駅からずっと坂道の連続
惣門をくぐったと思いきや、さらに坂道を登り・・・
お坊さん(?)に聞いてようやっとたどり着きました。
妻木一族の供養塔
妻木一族とは明智光秀の妻 煕子の実家です。
明智煕子の墓
kaiの独り言
平城でありながら、安土城に匹敵するとは天守が大きかったのか、城下町が発達していたのか・・・
あれ?5万石というと
あの4万石しかないのに10万石と見栄を張って破綻しちゃった、島原城とどっこいどっこいですね。
安土城に匹敵する天守で5万石?
交通の要所だったそうですから、税金で潤っていたのでしょうか?
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その他、戦国時代には関係ない気になったもの。
(聞こうにも地元の方と遭遇しませんでしたorz)
和風の黒いセブンイレブン