戦国末期の武将である加藤嘉明は
晩年、ひとから、
「どういう家来が、いくさに強いか」
と、きかれた。
当然、強いといえば天下にひびいた豪傑どものことである
という印象がその当時の世間にもある。
が、嘉明は、
「そういうものではない。猛勇が自慢の男など、
いざというとき、どれほどの役にたつか疑問である。
かれらはおのれの名誉をほしがりはなやかな場所では
とびきりの猛勇を見せるかもしれないが、他の場所では
身を惜しんで逃げるかもしれない。合戦というものは
さまざまな場面があり、派手な場面などはほんのわずかである。
見せ場だけを考えている豪傑など、
すくなくとも私は家来としてほしくない」
と、豪傑を否定し、戦場でほんとうに必要なのはまじめな男である、
といった。たとえ非力であっても責任感がつよく、
退くなといわれば骨になっても退かぬ者が多ければ多いほど、
その家は心強い。合戦を勝ちへみちびくものはそういう者たちである、
と嘉明はいう。
司馬遼太郎「坂の上の雲(二)」より。
日々精進。
晩年、ひとから、
「どういう家来が、いくさに強いか」
と、きかれた。
当然、強いといえば天下にひびいた豪傑どものことである
という印象がその当時の世間にもある。
が、嘉明は、
「そういうものではない。猛勇が自慢の男など、
いざというとき、どれほどの役にたつか疑問である。
かれらはおのれの名誉をほしがりはなやかな場所では
とびきりの猛勇を見せるかもしれないが、他の場所では
身を惜しんで逃げるかもしれない。合戦というものは
さまざまな場面があり、派手な場面などはほんのわずかである。
見せ場だけを考えている豪傑など、
すくなくとも私は家来としてほしくない」
と、豪傑を否定し、戦場でほんとうに必要なのはまじめな男である、
といった。たとえ非力であっても責任感がつよく、
退くなといわれば骨になっても退かぬ者が多ければ多いほど、
その家は心強い。合戦を勝ちへみちびくものはそういう者たちである、
と嘉明はいう。
司馬遼太郎「坂の上の雲(二)」より。
日々精進。