よく我々は、銀座等の街角で久しぶりにばったり学生時代の友人に逢うと、


「お前、変わってないな。。」


などと挨拶するが、実は生物学的には、分子のレベルでは1年前の「自分」はすっかり入れ替わっているのである。

1年前に自分の身体を構成していた分子や原子はもはやイマの自分の身体には存在していない。


すなわちイマの自分は1年前の自分とはみごとに「別人28号」なのである。


かつて、鴨長明は、その「方丈記」において、


「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。 」


「朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。」

と喝破している。


確かに、我々生命体は実は「行く川の流れ」そのものである。


この、我々の人生も自然の仕組みも同じであろう。人類も地球環境も大きな循環の渦の中に存在している。人類はその大きな流れに中で翻弄されている一葉の葦に過ぎない。


いま読んでいる分子生物学者の福岡教授の本の中に、ルドルフ・シェーンハイマーの見事な生命への洞察が紹介されている。


ルドルフ・シェーンハイマーは、彼の論文「身体構成要素の動的な状態(The dynamic state of body constituents)」の中でこう述べている。

「生物が生きている限り、・・生体高分子も低分子代謝物質とともに変化してやまない。生命とは代謝の持続的変化であり、その変化こそが生命の真の姿である。」

ようは、やや乱暴に簡単に言ってしまうと、我々生命体は、人間もネコもスズメも、福山雅治もヒラリークリントンも、ミジンコも、皆さん、大自然の大きな流れのなかの、たまたまそこに密度が高まっている「よどみ」でしかなく、それが高速度でつねに絶え間なく入れ替わっている「収支バランスの一現象」なのである。よって、下界と隔てられた「個体」としての「自分」なんて、分子のレベルではまったく担保されていないのである。


福岡教授は、「生命とは、自己複製するシステムであるが、さらには、動的均衡(dynamic equilibrium)にある流れそのものである」とし、海辺に建つ砂の城の例示で上手に説明しておられる。

やや小難しい言い方にはなるが、全ての物質には「エントロピー(乱雑さ)」が押し寄せてくる。つまり時間とともに無秩序になってゆき、やがては「死」に至る不可避的な性質がある(これをエントロピー増大の法則と呼にでいる)。そして、生命体にも容赦なくエントロピー(乱雑さ)」が押し寄せ、高分子を酸化させ老化を加速させ「死」に誘う。

しかし、「生命体」は、このエントロピー増大の法則に抗して、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さ(エントロピー)が増大する速度よりも早く、常に再構築し、乱雑さ(エントロピー)をソトに出すことで生命体を死から回避し存続させている。


一言で言えば、「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。」のである。


ある程度の寿命を維持できるのもこの我々生命体の持つ不思議な「仕組み」のおかげなのである。


なんともすごい偉大で美しい自然界の仕組みである。