我々日本人は我々の身体の中に宿っているDNAにもっと誇りをいだいてもいいかもしれない。


今日、仕事で日系ブラジル人3世の好青年O君と、半日行動を一緒にしたが、いろいろ話ながら、現代の我々日本人の中に眠っているもののともすると忘れさられようとしている大事な日本人としてのDNAを、彼の丁寧で優しい言動や品のある風情に感じ、妙に感動した。


そして今読んでいる渡辺京二の『逝きし世の面影』を思い出した。

この本には、そのあたりの「日本人のDNA」を再認識さえてくれるものがある。


この本にあるオランダ人の日本への感想のくだりが書いてあったのだが、正直言って、驚いた。

当時、西洋人がそれほどまでに日本の文化に敬意を払いしかもその本質を洞察し、謙虚にそれを汚すことに躊躇していてことに感動した。


長崎で海軍伝習所教育隊長をしていたオランダ人のカッテンディーケ(Huijssen van Kattendijke)が1859年に祖国に帰るときに残していった言葉に面白い台詞である。


カッテンディーケは、


「自分がこの国にもたらそうとしている文明が、果たして一層多くの幸福をもたらすか自身がない」


と述べている。


彼自身は西洋文明の優越を感じ自負しながらも、日本を開国していわゆる西洋流の「進歩」をもたらすことの弊害に躊躇をしているのである。


この本で感動するのは行異口同音に日本を訪れた多くの異邦人が、日本を美しい国と称し、日本人を

「幸福そうだ」と形容してるのである。


そして「この国の質朴な習俗」とともに、その「飾り気なさ」を讃美し、この国土の豊かさを見て、「いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声」を聴き、「幸福な情景」に神聖なものを感じ、感動しているのである。


それは結して太古の我々の祖先た先哲のものではなく、つい最近まであった身近な祖先の情景なのである。


昨今ジャパン・パッシング等、妙に自虐的なことを言うけしからん輩も多いが、決して日本人も悲観したり自信喪失に陥ることはない。こういった西洋人も犯しがたくかんじるほどの「幸福の風景」をついこの前までの我々1人1人の祖先はしっかり持っていたのである。温故知新ではないが、あまりに多くのことを捨てすぎてしまった我々日本人にとって、表層的な物質的な豊かさに目を奪われることなく、いま一度自分たちの先祖の日常の生き方にそのヒントを探すのも価値ある作業ではないかと、ふと思った。



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(渡辺京二『逝きし世の面影』)