「松山千春との37年間・彼が純粋に心で歌うなら、僕も純粋さを取り戻し、より心で聞こう~その9」3362-9/R

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◇更新履歴
V1.0:2015.10.29 初稿


■「松山千春の歌唱力その3(90年代)」

その8 http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-12088934472.html からの続きです。


9-1. より難易度の高い唄を歌うようになった90年代

この記事を読んでわかるように、

レコードから聞き取れる歌声、歌唱力よりも、ライブから見えてくる、感じとった側面の比重が大きい論評となっています。


90年代に入ると、スケールの大きい唄を歌いあげるだけではなく、

「純-愛するものたちへ-」や、「時計」、「ジュテーム」、「さよなら」など、より総合的な歌唱力が求められる唄が増えていきます。


ライブにおいて、気迫や絶唱、声の伸びだけでフォローできない、

声の細さ、太さのコントロールといった繊細な表現力が不可欠となった。

それらが少しでも欠けてしまうと、唄の魅力が半減してしまう楽曲と云っていい。


理論上は。


1990年。

松山千春 34歳。

唄の伝え方のニュアンスやライブでのアブローチに変化が見え始めた時期だと思います。


9-2. 喉のトラブルに見舞われ始めた90年代。

また避けて通れないのが、喉のトラブルである。

千春の声量に声帯が耐えられなくなり始めた時期でもある。


話を進める前に、この時期の喉の不調を記しておきます。


9-2-1. 89年秋。

ツアー当初から喉の不調を感じていた千春、13本目の北陸公演の後、福岡で医者に見てもらうと話している。 ただし口にしなければ、客は聞き手にはわからない程度だった。


だが名古屋公演ではアンコールを一回、一曲で終演のアナウンスが流れた。

そのときは、再び幕は開いたものの、


広島では、アンコールの2曲目の「恋」で声が出なくなり終演となる。


9-2-2. 92年初頭から93年。

喉とは直接、かかわりはないものの自律神経失調症で体調を崩す。

本人は、あまりシリアスに語らなかったが、「再びコンサートができるのだろうか、ツアーに回れるのだろうかと思った」と初日の上越で語っている。 


9-2-3. 94年春。

あからさまに歌声には表れていなかったが、

ツアー後半に入るあたり、

何かおかしいという雰囲気が感じ取れた。


最終日である札幌。

本編後半で、「だましだまし歌ってきたがどうやら限界みたいだ。 もしかしたらアンコールはできないかも知れない」と語っている。


9-2-4. 97年秋。

大宮公演から宇都宮公演。

風邪と喉の炎症で、一曲目から誰が聞いても一目瞭然の歌声でのライブ。

後半の東京初日においても、二部から一曲ごとに声が出なくなっていった。


これらを踏まえて、話を進めていきます。


その10http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-12092233364.html に続きます。

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