経済学と思想 | 秋山のブログ

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経済学の歴史をたどってみれば、歴史に名を残した賢人であっても、現在の知識に照らしあわせてみれば、しばしば全くおかしな理論を主張していることに気付く。もちろんそれは、時代とともに積み上げられてきた知識があるから言えるのであって、古の賢人が愚かで、敬意を払う対象になり得ないということではない。彼らは、彼らが生きていた頃の環境に影響を受けながら、限られた知識の中で努力してきたのである。しかし逆の視点から見れば、生き残っている理論の権威付けのために古の賢人の威光を利用するのは馬鹿げていることが分かるだろう。理論が適切かをみるためするためにすべきことは、現実やデータとの整合性だけだ。

思想がしばしば足枷になっていることにも気付く。
思想の正確な立ち位置を考えれば、一群の命題、方法論等を説明するものであろう。そして思想を学ぶことによって、効率的に一群の知識を得る、又は発展させられるということが期待できる。つまり思想は本来、一群の知識等によって規定されるものであり、一群の知識を規定するべきものではないはずである。例えば最近、エビデンスを重視する思想(医学においてはEBM革命とも言われた)が強まっているが、別に最近考え方がガラっと変わったわけでは全くない。実証を重視する科学者にとっては既に常識となっている方法論を明確にしたのに過ぎず、ほとんど何も変わっていないのだ。それゆえに何の抵抗もなく(思想を誤解したり、過剰適応した人間に対する批判はあった)受け入れられているのである。
経済学の場合は、他の諸科学に対してと同じように、近代以前においてはキリスト教の思想が立ちはだかった。キリスト教の善悪の価値判断は、学問的な考察のためには邪魔なものであったし、経済政策には聖書の記述に反するものもある。聖書も作られた当時は、その時代をかなり反映していたかもしれない。しかし、時代が変わり背景が変われば、当然修正が必要にもなるだろう。それは思想全般に言えることで、修正を拒み、原理主義的に思想を絶対視すれば、当然正解を出すことはできなくなる。キリスト教以外でも、アダム・スミスだったり、マルクスだったり、ケインズ、フリードマン等々、信仰になってしまっているように感じることが、しばしばあるのである。十分に注意する必要があるだろう。