銀行考 | 秋山のブログ

秋山のブログ

ブログの説明を入力します。

最近週末になるとHuluでベタなドラマを見ている。銀行を舞台とした「花咲舞が黙ってない」というドラマだ。ドラマとして実に面白いが、このドラマを見ていていつも思うのが、社会にとっての銀行の重要性、特に融資という仕事の重要性である。現在の銀行がどうかは窺い知ることもないが、高度成長期に社会のために奮闘していた融資マンが持っていたパッションを、登場する融資マンたちから感じることができる。

融資と投資の違いを考えてみよう。どちらも信用を事業者に付与する行為に他ならないが、いろいろ違いがあるだろう。株式会社も会計の情報を公表しているが、銀行から融資を受ける場合の内容は、より精密であろう。事業者側からみれば面倒ということがあるかもしれない。速度に関しても銀行は手続の煩雑さがあって時間がかかりそうだ。そうすると融資より投資の方が良さそうに考えるかもしれないが、投資は融資のように事業の直接的な確かさに信用を付与するのではなく、総合的且つ間接的で他の様々な要因にも影響を受ける。極端な例だが、潰れることが予想されても、途中で売り抜けられそうと思われれば、十分買われるのだ。どちらが社会の経済活動に有用かは考えるまでもないだろう。

金融資産等を多く所持している資産家にとって、投資より融資が隆盛であることは、好ましくないことだ。会社が銀行に払う利息は、大抵はその会社が得た利益よりもずっと小さい。その銀行に預けるしか方法がないとするならば、さらにそれより小さい利益しか受け取れないことになるだろう。資産を持っているということは、それが金融資産であれ、土地や何らかの利権等であれ、持っていない人間に対して相対的に貸しがある状態である。資産家の夢は、その貸しを清算されることなく、利子として生産物やサービスを受け取り続けることだ。であるから高い利子、配当を受けられない状態を嫌うのだ。さらに言えば、融資が増えると、いわゆる信用創造でマネーサプライが増えて、インフレになってくる(これがインフレの機序だが、そう指摘する経済学者は少ない)。インフレは資産家に対し、税のように働くので、これまた嫌うところである。新自由主義の経済学が、インフレこそ撲滅すべき悪という嘘を並べ立てて、デフレに誘導しようとしている(そしてそれは見事に成功している)のも理由があるのだ。

こうしてみると、銀行は経済の要であるだけではなくて、適切に働けば良好な循環を形成し、格差も縮小させるだろう。しかし投資家によって支配されることによって、銀行(特に米国)はおかしなことになっていったようだ。銀行の特に強力な立場は(そしてその独占性は)、利益追究に向かうならば経済のバランスを崩すような暴利を貪ることを可能にするだろう。見えざる手など何の根拠もない嘘っぱちである。米国とは思想の違う日本だが、外資が銀行を支配するようになれば、同じようになることがありうる。韓国が全ての大手銀行を支配されてしまったことと、現在の韓国の苦境は関係ない話ではないだろう。

銀行は経済の要であり、何かあれば税金を投入してでも助けるべきものである。銀行のこのような公的な性質を見れば、銀行はむしろ全て公立にすべきという考えもありうる。しかしどうだろう。完全民営と完全公立と2つしか道がないわけではあるまい。金融庁について書いた時にも書いたが、医療保険でやっているように、半公半民と言えるようなシステムを作っていくべきではないだろうか。
さらに言えばちょっと夢物語だが、融資(もしくは金融業)は体系的な学問として進歩していくべきだと思う。融資学部とか融資大学とかがたくさん出来て、新自由主義でない新しい経済学が教えられ、プロパガンダに騙されず自分で考える学生が集まったなら、最大限生産して適切に分配される不景気知らずの日本ができるように思われるがいかがだろうか。