こんにちは。千葉です。


今日で宮下誠先生が亡くなられて一年、です。かつて先生の著作「20世紀音楽」の感想をここに書いたところ、思いもよらずご連絡いただき当該のエントリーを「『クラシック』の終焉」に収録いただきました。その上過分な評価をいただいたのがほぼ三年前のこと。

「クラシック」の終焉?―未完の20世紀音楽ガイドブック/宮下 誠
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その後、宮下先生は問題の書「カラヤンがクラシックを殺した」を上梓され、クラシック好き各位の間に小さくない議論を提起されました。

カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)/宮下誠
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ここ最近のブログの書き方でもおわかりいただけるかと思いますが、千葉にとってはあまりカラヤンはそれほど大きい存在ではありません。実演を聴けなかったことに起因する実像の見えなさ、その演奏スタイルの非歴史性、メジャー嫌い(…)、どちらかといえばバーンスタイン派、などなど。マーラー演奏についてもあまり…とくればこれはまぁ仕方がないところです。自分が少しはクラシック音楽をわかるような気がしはじめた頃に亡くなられたのも、かなり間が悪かった。
メディアを最大限に利用した先進的指揮者として語られることも多いですけれど、その原型はラジオ時代にアメリカの文化的英雄となったトスカニーニではないかなと思いますし(後世に与えた影響の多寡の話ではありません、この話はまとめられたらそのうちに)。


そんなわけで、「カラヤンが~」に対しては20世紀音楽を中心に据えた前著より、千葉自身の食いつきはあまりよくなかったのです。議論によって提示される問題圏を、「カラヤン的なるもの」に一般化した形でしか捉えられなかった、という言い方もできるでしょうか…


結果、自分なりの感想もまともに述べることができないうちに先生が亡くなられて。伝えるべきものを持ち得ていたか、という自問から提示された問題に関する思考から何からが解けない結び目のようになってしまい、今もそれは解けていないように感じます。どこから手をつけたら少しは解けるのか、その糸口すら見えていないような。


それでも自分はクラシックを聴いている、そうして一年が経ちました。おそらく、千葉も先生の持たれていた絶望をどこかで共有しているという自覚はあります。でも遺された課題(そう感じています)には答えが出せていない、知識も足りなければ思考を突き詰めるだけの努力も足りない、もしかすると問題自体を捉えきれていないかもしれない(その可能性は小さくない)。それでも考えていればいつか天啓があったり頓悟したりするのか、それともしないのか…それさえもまだわかりません。


しかしながら、自分としてはこの先もこれまで同様、可能な限りポジティヴにクラシックを聴いていこうと思っています。「絶望したりもするけど、私は元気です」というか(あ~…)。実演にしても録音にしても、基本的には固定された事実として捉えることはできない、その時の経験の中に可能性があるものだ、と考えているものですから。


もしそのように読めない文章ばっかりだとしたら本当に申し訳ないところではありますが、ご容赦いただければと思います。できる範囲ではありますが、多様な音楽に出会うように務め、その中で課題についてぼんやりと考えていこう。今はそれが精一杯です、残念ながら。ですが、そこから始めることしかできない、という断念が、きっとこの一年のぼんやりとした思考から導かれた答えです。あまりにもささやかで、こうして言挙げするのも気恥ずかしいところですけれど…


ひとつの節目である今日は、そんなことを考えていました。週末に今度取り上げるお題はまだ決められず、ほとんど音楽は聞かず。


以上、自分への覚書でした。すみません、読んでいただける文章ではなくて。明日以降は通常モードです、ご容赦ください。ではまた、おやすみなさい。