こんにちは。千葉です。


キタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管のショスタコーヴィチ交響曲全集のレヴュー、いよいよ最終回です。作品はもちろん、交響曲第十五番 ト長調 op.141(1971)。

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ショスタコーヴィチの晩年の音楽の中でも、かなり癖のあるこの交響曲は受け取り方が難しい。楽章ごとの性格の違いが、振幅が大きいでは済まされないように思えるのです。


第一楽章は独特な性格ではあるけれど、けっこうオーソドックスなソナタ形式、ウィリアム・テルの引用が目立つのでつい形式感が失われそうにはなりますが。第九番の一楽章を思い出させます。
第二楽章は一転して重厚なアダージョ。独奏チェロ、トロンボーンが語るスタイルは初期の交響曲を思わせるところもあり、またその無調的な旋律は前作を想起させたり。
続くのはまたしても雰囲気変わってシニカルなスケルツォ。独奏ヴァイオリンが活躍する音楽には協奏曲第一番や交響曲第十三番を思いだし。
ショスタコーヴィチの交響曲、最後の楽章は明らかなワーグナーの引用ではじまり、自作の第四番やチェロ協奏曲第二番でも目立った打楽器群が活躍する展開。そしてバネがはじけるような響きを最後に残してショスタコーヴィチの交響曲は終わります。


自作や、過去の作品の引用は全編を通して回想的な雰囲気を作り出し、そのとりとめなく感じられる展開は、他の作曲家の晩年の作品にもまま見受けられる形式から開放されたかのよう。自伝的な事実を見なくても作曲者晩年の仕事であることは感じられるように思います。

そこまではわかる、しかしその音楽から何を受け取るのか、どう聴くのか。この作品を聴くたび、そんな問いが残るように思えます。難しい、と思う反面、異なる演奏を聴くたびまたこの曲の違う顔が見えてくるようで、非常に興味深くもある。そうか、まるで禅の考案のようですらあるのですね、と言ってしまうとなにかに寄せすぎかな。なかなか考えさせられ、しかし確たる答えどころか手応えすら掴めていないような感覚に襲われます。むむむむ。


今回参照したのはソヴィエトで活躍したマエストロたちと、例によってあのマエストロ。なお、今回は「これがいいね」的結論はないのです。上記したようなこの作品の性格を考えると、演奏ごとの違いをどう捉えるかは聴き手によって大きく異なるように思えますので…


録音年代順で見ていくと、彼から取り上げることになるのは、さすがというか何というか。

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第十三番以降、西側ではかなり早い時期にショスタコーヴィチの交響曲を演奏、録音をした彼は、最後の交響曲でも早々に録音を残しています。
RCAの素晴らしい録音により、いま聴いてもまったく遜色のない素晴らしい出来なのは流石としか言いようもなく。響きをきっちりと収めた録音には心底好感がもてますし、演奏自体のレヴェルの高さも文句なし。今なお定番として通用すると思います。


次に聴いたのは、昨日に続いてコンドラシンの録音。

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これは千葉にとってはソヴィエトのマエストロへの偏見を捨てさせてくれた演奏ですね。例によって速めのテンポで、明瞭な線で描き出されるこの交響曲、先ほど説明したような、どこか芒洋としたところがある、とは思えなくなるほどに力強い(笑)。最後の交響曲だから、という意味付けをしていないのはショスタコーヴィチ存命中の録音なるが故、でしょうか…


続いて聴いたのが、最近その音楽の見直しを考えているマエストロ、エフゲニー・ムラヴィンスキーがショスタコーヴィチ追悼コンサートで演奏したライヴ録音。

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演奏された場によるのか、それを意識してしまうが故に感じるのか、やはり最後の交響曲、として響くように感じられます。頂点へと向かう道は、コンドラシンが描くのとはまったく違う画を見せてくれるように感じられてしまうのですね。より悲痛に、より諦めを内包したように。むむむ、文学的になってしまってすみません…


ではその後の演奏史において重要なのはこちらでしょうか。

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この節度のある演奏を前に、文学的形容は無意味に近づきますね、むむむむむむむ
(困ってます)。これも定番として、いやある種の決定版的な演奏かな、いまいち言語化できてなくてすみません。それにしても、オーマンディ盤にしてもザンデルリンク盤にしても、アメリカのオーケストラがクセのない音色でこの曲の姿を綺麗に見せてくれるのはなんだろう。結論は出ないのですけれど…


煮え切らないままに最後にキタエンコの演奏です。

この作品を表から見て、きっちりと音にした演奏かなと思います。ここまで聴いてきた彼らの演奏、特に第九番同様、当局も認める大交響曲に聴こえる、堂々たる演奏ではないかと。ライヴ録音ではあるけれど、サウンドは文句なし。偶数楽章の立派さは彼らならではのものですし、奇数楽章でもスケールは大きいけれど重くなりすぎない、なかなか良いバランスの演奏だと思います。

ただ、それが如何にも公式のショスタコーヴィチ像であるような感覚も否めない。揺らがないんですよね、この演奏は。それを好むか好まないか、また良いか良くないのか(悪い、ってことはありませんね)、そのあたりは本当に聴き手による、としか申しようもなく。千葉は、どちらかと言えば、もう少しぶれたい方ですね、なにせ人として軸がブレブレなので(苦笑)。


う~ん、最後の最後も煮え切らない感じで申し訳ない感じです。作品自体の性格にもよるんです、と強弁できると気が楽になるような気もしていますけれど。

これで全十五曲の感想は終了ですが、あと一回まとめのためのエピローグを書こうと考えています。結局のところ、この全集はどうなのよ、という話ですね(笑)。


いつも更新が遅くて申し訳ない気持ちでいっぱいですが、言い訳の使用もないものですから本日はこれにて。ごきげんよう。