こんにちは。千葉です。
仕分は必要だろう、だがその基準が見える必要があるだろうな。と、まずは直観だけ。


さて、昨日読了した本の話。ショスタコーヴィチの予習でもあります。

外套・鼻 (岩波文庫)/ゴーゴリ
¥483
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本書には「外套」も収録されていますが、ここではあくまでも「鼻」のみに話を限定します(そこまで手がまわらない)。

以前、こちらの新訳でも読んだのです。

鼻/外套/査察官 (光文社古典新訳文庫)/ゴーゴリ
¥680
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落語の文体を用いることで、不条理譚に潜むユーモアを前面に押し出す試み、ある程度は成功していたと思いますが、いまひとつしっくりこなかったのです。その違和感の理由、岩波文庫版を読むことでわかったような気がしています。


岩波文庫版は新訳どころか解題の日付は「昭和十二年初冬」、その訳書を昭和四十年、そして2006年の改版を経てなお読み継がれているもの。こちらの訳をされた平井肇氏はゴーゴリ作品の名翻訳者と表紙にあるのですがさもありなん、でした。


朝起きると鼻がない、その鼻を求めてさまよう「少佐殿」の行動を逐一追っていくこの作品、その題材の特異さにあわせて視点は自由に設定され、時には書簡体にもなっているわけで。その多様さを一人の語りに還元して示してしまうことでここにある、ある種の客観性(複数主観の存在、とか言ってもいい)が失われてしまっているようなんですね。確かに、落語にも不条理譚はあるので新訳版のいとも理解できるのですが(落語にはく詳しくないけど、そのくらいは知ってます)、この作品でその語りを採用すると、話者の視点の変動がもたらす不安定さが失われるように思います。笑っていい事態なのかそうではないのか、少佐殿は悲劇の主人公なのかたんなる道化なのか、それらがあらかじめ訳者の解として与えられることによって生じる読者の不自由、とでも言ってみましょうか。


というわけで、千葉は岩波文庫版、平井肇氏の訳を大いに気に入りました。新訳版もアマゾンとか見る限りでは好評みたいですね、試みとしては理解できますし。こうして複数の訳書がある場合はお好みで読まれるのが良いかと。旧字旧かなではありませんので、岩波版も好いと思いますよ、というご紹介でした。


以上簡単ですがご紹介のみ。これでようやく、ショスタコーヴィチのオペラにすすめるな、と一安心(これまでは独特のオーケストレーションを面白がっていただけ)。ではまた。


Dmitri Shostakovich: The Nose [Hybrid SACD]
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これを聴きます。あ、今日ではないと思います、はい。