こんばんは。千葉です。

昨日うちに忘れてしまってアップできなかった予習の最終章、そのまま掲載します。悔しいから(笑)。

新国立劇場の公演の素晴らしさに、パンフレットの充実に敬意を表して、まだパンフレットの情報がない時点の物を出しておきたく思いましたので・・・

以下本文です。


出無精の血が、とは言いましたがさすがに一日家にいると飽きてしまうので、図書館に行って仕入れをしてまいりました。もうね、手元に十冊弱ないと安心しないのか自分、といささか本気で不安を感じることがあります(笑)。


さて。予習もいよいよ最終段階、原作小説を読み終わりました。

真珠の首飾り―他2篇 (岩波文庫 赤 639-2)/レスコーフ
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何度も書いてきた新国立劇場で上演中のショスタコーヴィチ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」原作小説です。
岩波文庫って、気がつくとこういう復刻版を出してますね。そう言えばかつて、アラルコンの「三角帽子」をこういう体裁で買ったような記憶が・・・(註:読んだ記憶ではない(笑)←そういう本を読めよ!)本書は旧字新かな、訳者のあとがきの奥付は一九四九年二月、となっています。手元の本は2007年の第7刷。最近の復刻は、やはりショスタコーヴィチ絡みだな!と思うのはファンのひいき目でしょうか(笑)。


レスコーフについては、正直な話本書を読むまでほとんど知りませんでした。以下、あとがき(p205)から引用します。


ニコライ・セミョーノヴィチ・レスコーフ(N.S.Leskov)は、一八三一年に生まれ同九五年に死んだロシヤの小説家である。
その生没の年からも明らかなように、彼はトゥルゲーネフよりは十三の年少、ドストイェーフスキイよりは十の年少であり、レフ・トルストイに比べれば僅か三つの年少にしか過ぎない。したがって、その創作活動の時期は、当然これらの三巨匠と同じく十九世紀後半にぞくしていたのみならず、一般読書界の人気から言えば、むしろこの三巨匠をしのぐものすらあったのである。現にドストイェーフスキイにしろトルストイにしろ、いずれもレスコーフの作品を一方ならず愛読していたらしいし、くだってチェーホフのような作家までが、最も愛読したのは決して上に挙げた三巨匠のうちの誰でもなくて、却ってレスコーフその人なのであった。
(引用終わり。漢字は新字に変更してあります)

ロシア限定で人気だった、といった説明がこの後に続きます。

なるほど、いささか帝政ロシアの社会事情に拘束されてしまうきらいはあるかも知れませんけれど、千葉は今回非常に面白くこの小説を読みました。まぁ、オペラを知っていてその前提で読んだからかも、ですが。


ショスタコーヴィチの音楽が刺激的なものだから、ついちょっと悪女の物語であるように思っていたのですが、なにカテリーナはうっかりでわがままな厄介さんだけど、「ファム・ファタール」なんてお決まりのフレーズに押し込む必要のない、一人の女性でした。成り行きで三人(オペラでは二人)殺してしまい、最後にもう一人とともに自らも死を選ぶ犯罪者であることは確かです。裁判員的な意味で言えば、同情の余地はないでしょう、シベリア流刑もしかたがない。


ですが、小説もオペラも倫理で読み解くべきではありますまい。本書やオペラから読みとられるのは「困った人しか出てこないなぁ」なんて素朴な感想ではないでしょう。


「マクベス夫人」と聞けば否応なく伴侶をそそのかして権勢を欲する悪女を想起する。しかしカテリーナにはたいした野心はない、それこそ「道化師」のネッダのように倦怠から自らを連れ出してくれる何かを待っていたところに、いい男が現れた(ような気がした)、そしてそこにある(ように思えた)幸せのために悪事を働いてしまった。まぁ、裕福な商人の嫁が、若いツバメを飼うために旦那と姑を殺す、と見ればその地域では充分に野心的かな、とは思うけど(笑←あまり笑うところじゃないぞ)。


では何故彼女は「マクベス夫人」なのか。わがままな理由で悪をなしてしまう行為の水準によってではなく、むしろ悪をなした後に、本当に絶望的な局面に直面させられてしまう哀れで弱い一人の人間の心理状態として、夜な夜な自分にだけ見えてしまう手についた返り血を洗い流すマクベス夫人になぞらえているのではないか。

読了してまず、千葉にはそう思えました。いや、少なくとも、ショスタコーヴィチにとって彼女はそのような、弱き存在の徴として描かれているのではないか、と。

オペラの冒頭ではまだ臨まれたものになりえず、またなるべき何ものをも持たない彼女は、セルゲイを自分を救う男と思うことで、いささか成り行きまかせには過ぎるものの自らの幸せのために行動するようになる。

しかしその成り行きまかせの犯罪が露見して共犯のセルゲイともども流刑の身となるや、彼女を支えた希望は薄っぺらい、偽りのものでしかなかったことに気づかされる。その絶望の深さたるや・・・


さて、このような認識を持って明日公演を見に行きます。また学習できますように。良いプロダクションでありますように。


ここまでが、昨日までに書いた文章です。

では、公演を見てどうだったのよ?というのはまた後ほど。


未見のかた、ぜひ残る一回を見逃さないでくださいね、とだけ書き添えて、このあたりでお休みなさいませ!