蠅たかる山の花にぞ現実の人の匂いの上りつ山路

 

みちふさぐ聖なる山の月山の鯉のぼりにぞ雲ゆき立ちぬ
 
人のなき山の上にぞ写真かなありてありしも嘘の孤独に
 
みちゆくは友の並びし案内の山のむこうにまだみぬ女
 
修道士並びては転び修道女行けぬ看板ありて帰りぬ
 
秋田へと女の並ぶマリア様、山の嘘にぞゴミ捨て場あり
 
月山よ、これ以上山穢さなばゆきくれて人捨てて悲しき
 
月山よ、むこうの山の波の音消さば月影海のうえなり
 
罪と罰、思いては今みちふさぐ気高き山よ、火山となりぬ
 
月山よ、積りぬ雪のとかしたもう。蔭、葉の行方うつしたもうな
 
御父の鐘の音にぞ葉の掠れ雲か雪かと身を隠しつつ
 
詩編 34 (34.7)
 
 
 
 
 
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観想のパートナー

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すでに昨日のことになるけれども、小暮助祭の話の途中で、私は聖書を開いた。すると、ローマ6.1-14、7.7-25を開く。
小暮助祭のお勧めのテーマはマルタとマリアだけれども、私に与えられたテーマは肉と罪について。
本当に神父のらぶらぶらぶ・・は迷惑だし、呪い殺したくなるほど迷惑だ、宦官になっちまえ、くらいにほざいてまして、その理由が説明できない。らぶらぶらぶ・・は愛に飢えたものにとってはよいのかもしれないけど、らぶらぶらぶ・・は気持ち悪いわけ。少なくても、思春期以降の若者が、年寄りにらぶらぶらぶ・・とやられたら気持ち悪いに決まってるじゃないですか。
神父様が素晴らしいのは、そういう恋愛感情なしで、らぶらぶらぶ・・というかったるさから抜け出すために、聖性なるものを与えられているはずなのに、えろじじいかと思われた、聖性も何もないのである。
可愛い女の子のゆめをみながら、らぶらぶらぶ・・
楽しいかもしれないが、信者にとっては大迷惑なのである。つまり、信者に癒しを求めるなと言いたい。
実際に悪いことなど一切してないに違いない。困れば助けてもくれるだろう。教会でも目にかけてくれるかもしれない。だけど、その動機付けがらぶらぶらぶ・・では困るわけ。あくまでも聖性の源に、神さまのお考えにより、それを誰よりも感知する能力を与えられ、そのように行動しているからこそ、神父の行動は信者にはわかりにくいものであるにもかかわらず、受け入れらるようになるのである。
違う?
 
詩編52.8-11
 
本当にそう。
莫大な富により栄華を夢見るよりも、オリーブの木、神さまの慈しみに生きる人たちに栄光あれ。
 
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自分らしさ

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少し自分らしさというものを取り戻したい。
最初の頃は、気ままに詠んでいるだけだった。
最初とはいつか?
おそらくは神父様にメールを書き始めたばかりの頃のことだと思う。
それが吾に帰ったら、教会で悪魔と言いふらされているらしく、その理由があくこのメールが原因になっていたらしいのである。
今までそういう苦労をしたことがなかったのは、このブログの管理人として、インターネットで匿名で詠んでいたからだと思う。
ところが、だ。
教会ですから。
神父様。
たまに、シスター。

「まあ、神父様に悪魔? 大変だわ、どうしましょう」

おおげさでおおげさで、歌人というか、教会では普通の信者であり、役員も3年目に入り、普通にご奉仕活動をしている普通の信者!
それが、神父様に対して悪魔と言っている?

あのですね・・・私は洗礼を受ける前から、ネット歌人として、少しシニカルな作風を得意としていまして、それで何か言われたことはなかったわけです。それが素晴らしいかどうかは別として、文学というのはそういうものではないですか?
当たり前のことを当たり前に詠む。
それはそれで当たり前なのですが、不意にインスパイアされたことをそのまま詠む。
そこに面白さがあるのではないかと思っていたわけです。

日頃、面と向かっては言えないけれども、何となく思いついたり?
そういうことはキッチン会議として、誰かが面白おかしく話している。
特に本気にしているわけではないけど、その程度の小悪魔(サタン)なら教会にはいくらでもいる。
それが当たり前。それが教会。

だけど、メールの先が神父様ということを忘れていた、というか、次第に忘れていってしまう。
ジャンキーというわけではないけれども、文学というのはそういうものではないか?
役員会のメールを書いているわけではない。
返信を期待しているわけではなくて、むしろ返信は無理だろうなと経験上思いながら、それでも毒づくことというのはありませんか?
むしろ面と向かって教会の悪口を言われるほうが、神父様もシスターも考えながら真面目になるのではないかと思いますが、メールというのは、「これはあの白石さん!が本当に書いているのだろうか?」というところから悩み始められると、私も困るのですね。
私も学生時代を通じて、それなりにあくこだったので、そういうシニカルなところはあっても、若い頃はゆるされるのです。ところが、教会の役員をやる年齢になりまして、いつまでもそういう調子なのは、短歌という特殊な世界に埋没しているからであり、役員会や教会内でやっているわけではない。
だから、教会では意外と平穏に楽しくカトリック生活をしていただけなのに、修道会や他の教会などで話題になっていたそうなのです。ありえない。知らない方たちばかりだったら仕方ないかな・・・と。

楽しいから真似をしている方たちもいた?
よいこは真似しないでください。本気で悪魔に思われますから。
アナはですね、いいのね。あくこだから。よいこではない。そこが大きな違いなのです。

いずれにせよ、真似するからこういう騒動になるわけで・・・とクレームつけたいのですが、私は歌人としてわが道を行くことが使命なのではないかと、不意に思った。
ただし、修道会にまで迷惑をかけたくないので、特に何かを思って詠んでいるわけではないことを申し伝え、ご迷惑をおかけした皆さまには、あくことしてではなく、歌人千秋アナとしてお詫びしたいと思います。

エゼキエル 4.9 -17



罪深き私をゆるしたまえ。
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新しいメルアドつくりなりすまし!ああ、いるんだなとうっふんかとう


めいわくと言うか歌壇の庭の外園庭たればうっふんかとう


神父とは並ばぬほうがええおもうジャンキー写真ひそかなマリア


グーグルのメルアド消えてあくこかな。修道会かストーカーか


聖(み)マリアよ、あなたの声の悲しきは母なるとても若き日の恋


ラブホテル領収書あり住所にはマリアの家と書かれておりし


千秋アナ(ジャンキーアナ)


コロサイ 2.20- 3.16
借景のわかば紫陽花塀のそとたわわな花の吾が庭に咲く


交差点空ひろがれば信号の矢印の前すれ違う車


咲く花に尋ねてみればさつきかなつつじいつしか忘れたまひて


植込みの薔薇のフェンスの折れたれば庭師待ちたる晩春の頃


吾が薔薇の背の高きを通行の楽しみならず庭師待ちたる



哀歌 4.21-22 - 5.



Rin@歌人