自分らしさ

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少し自分らしさというものを取り戻したい。
最初の頃は、気ままに詠んでいるだけだった。
最初とはいつか?
おそらくは神父様にメールを書き始めたばかりの頃のことだと思う。
それが吾に帰ったら、教会で悪魔と言いふらされているらしく、その理由があくこのメールが原因になっていたらしいのである。
今までそういう苦労をしたことがなかったのは、このブログの管理人として、インターネットで匿名で詠んでいたからだと思う。
ところが、だ。
教会ですから。
神父様。
たまに、シスター。

「まあ、神父様に悪魔? 大変だわ、どうしましょう」

おおげさでおおげさで、歌人というか、教会では普通の信者であり、役員も3年目に入り、普通にご奉仕活動をしている普通の信者!
それが、神父様に対して悪魔と言っている?

あのですね・・・私は洗礼を受ける前から、ネット歌人として、少しシニカルな作風を得意としていまして、それで何か言われたことはなかったわけです。それが素晴らしいかどうかは別として、文学というのはそういうものではないですか?
当たり前のことを当たり前に詠む。
それはそれで当たり前なのですが、不意にインスパイアされたことをそのまま詠む。
そこに面白さがあるのではないかと思っていたわけです。

日頃、面と向かっては言えないけれども、何となく思いついたり?
そういうことはキッチン会議として、誰かが面白おかしく話している。
特に本気にしているわけではないけど、その程度の小悪魔(サタン)なら教会にはいくらでもいる。
それが当たり前。それが教会。

だけど、メールの先が神父様ということを忘れていた、というか、次第に忘れていってしまう。
ジャンキーというわけではないけれども、文学というのはそういうものではないか?
役員会のメールを書いているわけではない。
返信を期待しているわけではなくて、むしろ返信は無理だろうなと経験上思いながら、それでも毒づくことというのはありませんか?
むしろ面と向かって教会の悪口を言われるほうが、神父様もシスターも考えながら真面目になるのではないかと思いますが、メールというのは、「これはあの白石さん!が本当に書いているのだろうか?」というところから悩み始められると、私も困るのですね。
私も学生時代を通じて、それなりにあくこだったので、そういうシニカルなところはあっても、若い頃はゆるされるのです。ところが、教会の役員をやる年齢になりまして、いつまでもそういう調子なのは、短歌という特殊な世界に埋没しているからであり、役員会や教会内でやっているわけではない。
だから、教会では意外と平穏に楽しくカトリック生活をしていただけなのに、修道会や他の教会などで話題になっていたそうなのです。ありえない。知らない方たちばかりだったら仕方ないかな・・・と。

楽しいから真似をしている方たちもいた?
よいこは真似しないでください。本気で悪魔に思われますから。
アナはですね、いいのね。あくこだから。よいこではない。そこが大きな違いなのです。

いずれにせよ、真似するからこういう騒動になるわけで・・・とクレームつけたいのですが、私は歌人としてわが道を行くことが使命なのではないかと、不意に思った。
ただし、修道会にまで迷惑をかけたくないので、特に何かを思って詠んでいるわけではないことを申し伝え、ご迷惑をおかけした皆さまには、あくことしてではなく、歌人千秋アナとしてお詫びしたいと思います。

エゼキエル 4.9 -17



罪深き私をゆるしたまえ。
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新しいメルアドつくりなりすまし!ああ、いるんだなとうっふんかとう


めいわくと言うか歌壇の庭の外園庭たればうっふんかとう


神父とは並ばぬほうがええおもうジャンキー写真ひそかなマリア


グーグルのメルアド消えてあくこかな。修道会かストーカーか


聖(み)マリアよ、あなたの声の悲しきは母なるとても若き日の恋


ラブホテル領収書あり住所にはマリアの家と書かれておりし


千秋アナ(ジャンキーアナ)


コロサイ 2.20- 3.16
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借景のわかば紫陽花塀のそとたわわな花の吾が庭に咲く


交差点空ひろがれば信号の矢印の前すれ違う車


咲く花に尋ねてみればさつきかなつつじいつしか忘れたまひて


植込みの薔薇のフェンスの折れたれば庭師待ちたる晩春の頃


吾が薔薇の背の高きを通行の楽しみならず庭師待ちたる



哀歌 4.21-22 - 5.



Rin@歌人






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春の陽に使い残しの日焼け止めふと思いだす使用期限

職安に通いつ奥の事務所へと吾を雇いたし吾がいぬものかと

メルアドを確かめることあしき吾アカウント名の偽名のごとく

筆名を新しくする愚かさに近頃気づくネットの歌人

陽だまりは神さまからの贈り物聖歌隊席扇風機下

エアコンの吹きだす音に驚きつ冬は止まりし薔薇の庭にて

やわらかき陽の光にぞイエズスは吾らのうえに吾らの代わりに

イエスさまのしづかに微笑む十字架の復活の日の夢の残り香

ミサ後にはまばらな声の響きゆくガレットを売る軽やかショップ

椅子のうえ思う人らのおもはゆく祈りのうちに消えゆアレグロ

テンションを一つさげては調弦の忘れしハープ弦切れもせず

苛立ちに予備の弦などそろえては弾かぬハープは部屋の飾りか

桜咲く並木をみては復活の幻のごとゆがみゆく時

春はきぬ今が春だと四旬節忘れし吾のゆれし裏地に

朝マックコーヒーフロート我慢して甘きマフィンの蜂蜜を思う

朝電話訃報の中に談笑のあり93の旅立ちのこと

歳月は他人のなかにつながれば逢うことなきを老齢と呼ぶ

悩みひと罪かさねてはつながりの幻のごと箏の音のごと

名のなきはミサのドロップ聖霊のさりて咲きゆく樹の下の草

吾のありて祭壇の花通りすぐお掃除モップ艶やかな床

コリント一 4.10-21


助祭叙階式

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今年は、うちの教会だけではなく、いろいろな教会に巡礼に行きたいけど、実は仕事が溜まっていてなかなか進まない。
とりあえず、いくつかお知らせをいただいて、その中から選べるのは役員の特権かもしれない。
実際には、近所の教会へ通うだけでも大変なのかもしれない。

古河教会へ行ったのは初めて。
以前から手話のことで知り合った方がいて、うちの教会では難聴者がいなくなるため、典礼ミサについてもう少し勉強しようと思い、お話を伺おうと思ったから。
神学生の助祭叙階式があり、出身教会で叙階するから、小さい教会だし、静かに行われると思っていたのに、大司教様までいらしていて、参列者もいろいろな教会から集まっているそうだ。
普段は本当に小さな教会で、そのくせ二階席があり、椅子もパイプ椅子だけど、本当はそういう小さな教会のほうがカトリックらしくて好きだ。
オルガンは1階にあるけれども、私は2階にいた。
オルガンの真上。
隣にいた方は本格的に声楽をなさっている方だと思う。歌い方が全然違うし、私はいつも二人しかいないアルトのために主旋律を歌うことは少ないけど、たまにはそうやって気分転換に外で歌うのも楽しいと思った。
聖歌隊をしていると、ミサのことがあるから、それなりに気を使う。
そういう意味では、他の教会へ行くことはそれなりにストレス発散になる気がしたし、勉強にもなった。歌いすぎるのはよくないと思いながら歌っているのと、和声を気にしないで歌っているのとは違う。

うちの教会も長くなると、聖歌隊の指定席もあり、役員もやり、・・・という具合だと、ただ座っている、という気がしなくなる。
教会のご奉仕というのはそういうもので、毎月行事予定表を作りながら何か忘れていることはないかとか、来月には何があるとか、細々としたことまで考えるようになると、ミサ後には何があって、という具合に何となく落ち着かない気がする。
それはそれでよいことなのだと思うけど、普通に信者としてミサに与るほうが楽しい気もする。
どちらがいいのかわからないな・・・行事があってもお客様をしているほうがいいのか、皆と一緒にご奉仕するほうがいいのか・・・わからないな。教会とはいろいろな方がいる。

肝心の叙階式のほうはお話好きの神学生がよく似た家族に囲まれ、大司教様のユーモアのある司式のもとに和やかに行われた。
田舎の教会で和やかに、それでいて大聖堂のような空気。
小さな教会が2階席までいっぱいになり、知り合いと外で立ち話をしただけでパーティには出ないで帰ってきた。彼はうちの教会からテントを持ってきているから先に帰れないのだそう。
司牧部は大変だ。
総務のしらいしになりそうだから、そそくさと帰った。
どこの教会も人手不足なのかもしれない。
普通に信者でね・・・
私は聖歌隊だから、いいや、と思って帰ってきた。
ご奉仕か・・・

列王記下 10