人生を切り開く平均値の話 (1) 「愛憎と切なさと」
こんばんは。
さて、今回から連載で記事を書きます。
いつもそう言っては中途半端になっていますけど (*v.v)。
さて、FNNのネットニュースをまとめて見たりしてますけど、
名古屋かな? パチンコ店の従業員さんの事件がありました。
お互いにきついですわね。
そして、残された家族はもっときついかもしれません。
この事件のニュースを見ていて・・・・
あんた何を言っているのと言われるかもしれませんけど、
完全に加害者だけが悪いかと言えば微妙な感想を持ちました。
もしかしたら・・・
被害者のお母さんも、交際に対して猛烈な反対をしていたのかもしれません。
その断り方であるとか、対応であるとかが・・・
加害者に殺意を持たせるまでにエスカレートをさせたのかもしれません。
それとも被害者側は丁重な対応で交際の断りをしたのに、
加害者による自己中心的な衝動で犯行に及んだのか・・・
その真相はわかりませんが、
単純にストーカー殺人事件であると割り切れない事情があるように思いました。
お互いに苦しんでいたのであれば・・・ それを切なく思います。
愛憎ですね。
極端な愛情の表現は狂気になることがあるのだと思います。
私も経験がありますが、付き纏い行為ですかね。
若い頃にもある女性からストーカーの被害を受けたことがありますけど、
何気なく振り向いたら電信柱の影から私を見ていたりすることがありました。
あまり幸せな気持ちになれない瞬間です。
自分が男でもどうかなと思うくらいですので、女性の場合はもっと怖いでしょう。
しかし、人間って本当に勝手な生き物でもあります。
自分が好意を持つ相手にストーカーのように愛されたら喜びますが、
その逆で、自分が嫌いな相手であれば不快感や恐怖感を持ったりします。
相手の気持ちは同じでも、自分の気持ちが違えば、
それがラブラブカップルになったり、犯罪者になったりします。
お互いの同意や気持ちの問題とは言え、
人間は感覚や個性・価値観が複雑するぎるのかもと思います。
でも、それが人が人として存在している意味や価値なんだとも思います。
ちなみに・・・
ある意味で、結婚もストーカー行為みたいなものでしょう。
旦那さんが仕事から帰ったら、奥さんがいつも家で待機しています。
それを、待ち伏せって言えるかもしれません。
電信柱の影から監視していたら犯罪で、自宅で皿洗いをしていたら問題がない。
この場合は、結婚という目には見えない何かの契約があるかないかで・・・
当たり前ではありますけど、その結果が大きく変わったりするのですね。
ちなみに、その契約が薄れてくると、
ちょっと、一緒には寝ないからね・・・
臭いからあっち行って・・・
何でそんなに稼ぎが悪いのよ・・・
あんたってほんとにバカね・・・
まるで旦那でいることが、
何かのストーカー行為のように言われたりすることもあるかもしれません。
私も経験がありますけど・・・
「お前、身も心も中国人みたいだな!」
って、間髪を入れず、
「中国人に失礼だわ!」って言われたことがありました。
反論するタイミングと言葉がなかったですね ・°・(ノД`)・°・
私にしてみれば、こんな話も愛情表現のひとつなので楽しいのですけど、
相手によっては怒り狂ったりすることもありますわね。
さて、何の話でしたっけ?
そうそう、真面目な話ですが、何でも考え方が極端になると、
どうしても軋轢やトラブルの原因になるのではないかという内容でした。
愛情もそうで、極端になると様々な毒素を生み出すことがあります。
逆に、まったく愛情や興味がないというのは、無関心ですね。
それはそれでクールというか、冷たい感じもします。
ですから、私は、「愛情の対極は無関心」であると考えています。
そして、その広義での「関心としての愛情」を構成する要素として、
時には「嫉妬」があったり、「愛着」があったり、「独占心」があったり・・・
相手に興味はあるのだが、その表現が相手を中心に考えての発想か、
それとも自分を中心に考えての発想か、
そうしたことで受け止められ方が違ってくる、そうしたことだと考えています。
又、人間の関心について考えたときに、本人の主観的な事実と、
周囲の人達の客観的な物事の見え方にはズレがあることが多いと思います。
例えば、同じ今回のような事件でも、
人によっては、それほどまでに愛していたのね・・・ そう思うこともあり、
人によっては、何て自己中心的な考え方なんだ・・・ けしからん。
そう思うこともあるでしょう。
では、本人はどう思っていたのでしょう。
ニュースでは、「自分がしたことに間違いはありません。」
・・・ そう正直に話していました。
本当は誰よりも愛情が強かった人かもしれない・・・
しかし、その表現や使い方を間違ってしまい、
今後の残った人生も地獄のような日々かもしれない・・・
私達が知らないところで、一生、苦しみ続けて行くのかもしれない・・・
更には、残された家族にしてみたら、もっと不幸なことかもしれない・・・
被害者も加害者も不幸になること、それを事件と呼ぶのかもしれません。
私は親鸞聖人が好きなんですが、聖人の説法の中にこんな言葉があります。
「悪人こそが苦しんでいる」
人間は本来、相対的にでも悪いことするようには作られていない・・・
選択の自由はあるが、悪を選択することで苦しみが生まれるようになってる。
良心の呵責というものが与えられている。
さて、今回はここで終わります。続きません。
「愛憎と切なさと」・・・ 皆さんにも考えて頂きたいなと、そう思いました。
そこに希望や救いを見つけることができるでしょうか。
では、ありがとうございました。