日韓併合時代は警察官の6割が朝鮮人だった | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■日韓併合時代は警察官の6割が朝鮮人だった

『1945年の解放当時、約90万人の日本人が居住していた。』
(中央日報2011年11月3日記事)
http://japanese.joins.com/article/232/145232.html?servcode=400&sectcode=400

ということは1942年の朝鮮半島の人口は2553万人だったため朝鮮半島での日本人が占める人口の割合は3.5%しかいません。

当然公務員などは日本人だけでまかないきれるはずもありませんから、現地の言葉のわかる韓国人を雇用するしかないわけです。

1910年当時、警察官の6割が朝鮮人でした。

警察官数:5693人(1910年末)

 日本人:2265人、朝鮮人:3428人

(尚、警務官が全3人中1人、警視が44人中14人、警部が268人中101人)


『日本が韓国の警察制度の近代化に乗り出したのは、1910年になってからでした。
警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しました。
一般に韓国民衆を弾圧するためと即断されがちですが無差別に行われる韓国官憲の横暴や拷問を防ぎ、「義兵」などと称して行なわれていた山賊まがいのことや、親日派韓国人へのテロ、襲撃を防ぐためには、断固たる措置が必要であったのです。
しかし日本人は語学ができず、民情にも疎いので憲兵・警察の補助要員として韓国人を募集しました。
当時、日本人憲兵1007人、韓国人憲兵補助員1012人、日本人巡査2265人、韓国人巡査3428人で、いずれも韓国人の方が多かったのです。ところがこの補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らすものが多く、悪弊を直すのに困りました。
今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3年)には、
『朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる』と述べています。』
(「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 1997年 国際企画刊)



たぶんその数は、年ごとに増えていったでしょう。

知事ポストの約4割を朝鮮人が占め郡長、村長に至っては、ほぼ全てのを朝鮮人が務めていたようですし、国会議員になった朝鮮人(朴春琴)もいますし、待遇は決して悪くなかったようです。

日韓併合される前の李氏朝鮮時代には「残忍な拷問」は日常的に行われていましたが、日本はこれも禁止しました。

『朝鮮が日本の保護国となり、日本が統監統治を始めると間もなくこのような階級制度・拷問を廃止し、刑務所も広く清潔に造り替えた。 拷問の禁止は島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となった。 
1908年の法令改正によって、拷問した取調官は3年以下の懲役と定められた。』

http://plaza.rakuten.co.jp/silverlining/diary/201111110001/


<李氏朝鮮時代の拷問と死刑執行方法>
『「死刑の執行を見た。 身動きのできぬ囚人の足の内側に棒を挟んで、執行人たちは自分の体重の全てを棒の片端にかけた。 囚人が続けざまに吐き出す叫び声は聞いていて実に凄絶なものだった。 脚の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声さえももはやないか のように、囚人の凄絶な悲鳴も止まった。 執行人らは囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから最後に絹紐を使って首を絞めて殺した。 ―― 理由が何であれ、こんな状況がまだこの地球上の片隅に残されてあることは、人間存在そのものへの挑戦である。 とりわけ私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば、真っ先にこのような拷問を廃するだろうという点だ」』 
(「悲劇の朝鮮」スウェーデン人 アーソン・グレブスト)


日本人は李氏朝鮮時代の残忍な拷問を禁止しましたが、韓国人は簡単に600年続いた慣習を変えることは容易ではなかったようです。↓↓

『朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる』
(今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3年))



1919年に三・一独立運動で逮捕された柳寛順に関しては、文教祖は次のように語っていました。

『ですから、四つ目は「国境線の撤廃と交差結婚」です。今や皆さんが結婚するにあたり、霊界においてこれまで結婚させるにあたり、三代怨讐とか、自分の先祖が知っている歴史的な怨讐とか、そうでなければ三時代の国の怨讐となる者と結婚させてあげました。それで柳寛順が日本人と結婚したのを知っていますか? 柳寛順が日本の警官たちによって六つにちぎられて死んだのに、なぜ、その日本人と結婚させてあげましたか? これです。怨讐を愛さなければならないのです。』
(三時代大転換四位基台の入籍統一祝福式2000年9月26日)


柳寛順が十六歳の時に、国を愛し、国を取り戻すために犠牲になったことは、どれほど若者たちの胸に、爆発的な愛国心を呼び醒ましたことでしょうか?』
(1981年4月1日のみ言葉)


霊界メッセージでは・・・
柳寛順は十六歳の時に、民族のために殉国した少女として韓民族の胸に深く刻み込まれている女性です。ここで柳寛順に関して話すのは、彼女が国のために、自らの渾身の力を尽くして献身したからです。』
(「霊界の実相と地上生活1」金英順女史を通しての李相軒(36家庭)の霊界メッセージ 1999年9月30日)


文教祖ははっきりと「柳寛順が日本の警官たちによって六つにちぎられて死んだ」と言っていますね。それに16歳で亡くなったとも言っていますが、この二つの内容は最近「事実ではない」ことがわかりました。

霊界で柳寛順と会ったという李相軒氏(36家庭)でさえも「16歳」で亡くなったとしています。

統一教会から発せられる根拠は霊界でもありません。韓国が発する反日記事だということがこのことでよくわかります。

最近「柳寛順」に関しての新たな「事実」がわかってからは韓国での新聞等のメディアの記事さえ死亡は18歳、病死に訂正されています。

2002年の韓国中央日報の記事です。↓

『謄本によって任さんは、柳寛順の出生年が1904年ではなく1902年で、1人娘ではなく姉が1人いたという事実を確認した。任さんは昨年10月、天安大が主催した「柳寛順烈士追慕学術大会」で、我々が知る柳寛順の殉国月日と生年月日が事実とは異なる、と指摘した。
任さんは、柳寛順の最終刑量は、懲役7年でなく3年だったと主張した。京城(キョンソン)復審裁判所(控訴審)の判決文と受刑者記録表によると、柳寛順は小学校の教科書にあるように「検事に椅子を投げつけたため法廷冒とく罪が追加され、7年の刑を宣告された」のではなく、3年の刑を受けたという。その後、柳寛順は高等裁判所(現在の最高裁)に上告せず、これが最終刑量になったという。
「梨花学堂時代、柳寛順の級友だったポガック(99、僧侶)さんの証言によると、死亡して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったそうです。その時、死体は腐っていましたが、四肢は切断されてはいなかったという話です」。
任さんは「柳寛順への盲目的な思い込みから、こうしたいい加減な事実が広まり、子供向けの伝記にまで掲載された」とし、「今は、冷静になって史実を確認すべきだ」と話した。
(中央日報 latest news「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」 2002年02月26日)



◇「柳寛順への盲目的な思い込みから、こうしたいい加減な事実が広まり、子供向けの伝記にまで掲載された」とし、「今は、冷静になって史実を確認すべきだ」

◇1919年当時の警察官は6割以上が韓国人だった(韓国人は拷問方法が残忍だった)

↓だから統一教会信者は文教祖の話(韓国反日プロパガンダ)を信じてこういう内容が書けるということですか・・・・・・

『万歳(まんせい)の声を上げただけなのである
しかるに朝鮮総督府の厳つい憲兵達は、まるで彼女を凶悪犯ででもあるように縛り上げ、残忍な拷問を加えたのである
拷問??
16才の少女を拷問した上
わずか1年数ヶ月で責め殺した
内部は5つの拷問室で仕切られていた
一体どんな拷問を繰り返せば、生命力に満ちた少女を殺せるのだろう?
いったい何だと言うのか?
反吐が出そうだ!
何をしたのか、分かっているのか?
少女は叫んだ
「おまえたちは、私の父母を殺した。無実の同胞を次々に殺している。その大罪は必ず神が裁いてくれるはず・・」
少女の口を借りたこの預言は後に成就した
罪悪の内に立てられた大日本帝国は、この時、滅びの道が決定したのである』
(くろだかんご氏のブログ2011年11月11日記事より)

http://kurokango.blog50.fc2.com/blog-entry-82.html

さすがに事実とことなるため手足切断とは書けなかったようです。
しかし、年齢が16歳になっています。

もし年齢を18歳にしたら「霊界メッセージ」や「文教祖のみ言葉」を否定することになるので、予防線を張ったようですが、18歳で死亡したのは明らかになったのですから、真の歴史観を主張する方にしてはお粗末ではないかと・・・・・。
(それとも中央日報の記事を知らないとか?・・・・)

憲兵の中になりきり日本人の韓国人も多数いたことをお忘れなのでしょうか。



最後に韓国人の残虐性について・・・・・


『これらの報告を読んでいると(管理人注: 同書の中で上記のグレブストの本の拷問場面を引用している)、思い出すのは韓国の天安市にある「民族独立記念館」のことです。この記念館でもっともショッキングなのは、日本の警官が朝鮮人を拷問している蝋人形の場面です。暗黒の中で光線に照らし出された拷問の模様は、5場面に及びます。私の連れていった学生達は、『見ておれない、まるでホラー・ビデオだ。日本人はこんな残虐なことをしていたのか』と言います。
修学旅行にやってきた韓国の小・中学生たちは、その前で日本人への憎しみをかきたてます。私は眺めながら、もっと深刻なことを考えていました。こういう拷問のやり方の中に、ここに紹介した外国人の報告の描写とダブる所があると気づいたのです。
当時日本は、朝鮮人を憲兵や警察の補助員として使っていました。直接の取調べは、言葉の判る朝鮮人が当っていたのです。だから拷問を行なっているのは朝鮮人であるところに、悲劇の深刻性があったのです。
(「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 1997年 国際企画刊)
http://ameblo.jp/sankeiouen/entry-10997426622.html#main