文国進氏の再婚(文教祖の言い訳)(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■2003年6月頃、四男の国進氏は「子供ができないという理由で離婚」したようだが、再婚相手は自分の選んだ好きな人、つまり恋愛結婚だった

2003年6月ごろ、信者の間で四男の国進氏が「子供がいないことを理由に離婚」したと噂が流れました。掲示板に書き込まれた内容は以下です。

<紀藤掲示板より>
[22474]統一協会の離婚 by.ランナー 2006年11月25日(土) 22時49分
天のしずくさんの掲示板を再掲載します。

国*さん離婚 投稿者:カインの末裔投稿日:2003/06/05(Thu) 10:14 No.2948
一ヶ月ほど前から米国の統一教会関係者や韓国の関係者から文師自慢のハーバード大学卒のお子さん国*さんが、正式に離婚したとの情報が、飛び交っていましたが、日本の古参幹部に確認したところ離婚したようだ。
 日本の総責任者で、国+さんの義理の父親劉総会長が、反逆したり長男の孝*さんの洪家問題のようにならないよう文師は、劉氏を呼び寄せなだめているとのこと。子供が、できなかったことと性格の不一致が原因とか。十字架を埋めることに成功したので、何でもありなのでしょうか?現役の方、アベルに摂理的意義を聞いてもらえませんか?
文師の「真の家庭運動」は、どうなるのか?

Re: 国*さん離婚 薔薇売り少年 - 2003/06/05(Thu) 12:55 No.2949
カインの末裔さま
ご無沙汰しております。
最近、国*さんを見かけず、情報もなかなかはいらないと思ったら、離婚されたのですね。
おそらく、子供ができなかったことを理由に色々と言い訳工作を練るのでしょうね。
どのような言い訳が聞けるか楽しみです。
是非更なる情報が入りましたら、教えてください。

摂理的意義は・・・ aibon - 2003/06/05(Thu) 17:38 No.2951
摂理的意義は簡単ですよ。
祝福家庭が一つになれなかった。一体化できなかったので真の家庭が犠牲の道をいくのです。。
皆さんは、真の家庭の恩讐です!ご父母さまの愛を奪って逃げって・・・
何かよくない事があれば、みんなこれで当てはまるはず。
「真の父母様はメシアとしての責任を全て果たされたにもかかわらず、我々が足らないゆえに、今も苦労と犠牲の道を・・」
と、毎度毎度同じ自虐的お祈りを繰り返す両親の姿を見ている2世の子供たちが、自分の両親や人生に誇りをもって生きられるか、ちょっぴり心配です。

Re: 国*さん離婚 レジェンド - 2003/06/05(Thu) 22:49 No.2956
カインの末裔さんへ。
この情報をみて、ショックを受けています。
だれでも大なり小なりショックは受けるでしょう。
自分なりに整理してみます。
カインの末裔さんは、いろんな情報知っておられるのですね。
私もいろんな情報聞いて判断したいです。
昨日、久々に、教会行っているシックと合って聞いたのですが、サッカーの神様の*レ氏が御父母様受け入れていると、言っていました。(国*様のことは何も言ってなかったですけど)
話題が違ってくるので後でもかまいませんので、このことについて、カインの末裔さんの情報やどのように考えておられるか聞かせてほしいです。

Re: 国*さん離婚 saito - 2003/06/05(Thu) 22:49 No.2957
え、まさか?! カインの末裔さんホントですか?
教会ではそんな話し、みじんも聞かないですよ。
しかし、そのうち、ハッキリするんでしょうね。
教会の正式見解がどう出るかだな。



そして、その3ヵ月後の2003年9月ごろ、国進氏が恋愛結婚したと信者内に噂が流れました。そして、文教祖は「真の愛より、血統を残さなければ意味がない」と恋愛結婚の言い訳をみ言葉で語ったそうです。

実は「子供がいないのを理由に離婚」したのは、国進氏自身の子供がいなければ、統一教会の覇権(権力)を握れないという思惑の元、自分の子供を産んでくれる女性を、自ら選んだということかもしれません。その動機が恋愛なのか、ただ子供を産む女性が必要だったのかは、はっきりとはわかりませんが、その推測を記事にされている方がいます。
(参考記事:北風と太陽2011年10月10日記事「でき婚」否定で、見えてきた国進の野望・・・・人生を翻弄された3人の女性」)

<2CH 統一教会の何が悪い!!!!! 【Part22】より>
651 :名無しさん@3周年 :03/09/01 21:43
 先日、離婚された国*さんが、再婚されたそうです。
1800双の祝福家庭の娘さんだそうですが、孝*さんの再婚の時と違って、
文師が、相手を選んだのではなく、ご自分が、好きな人を選んだようです。
文師は、「真の愛と真の血統とどちらが、大切か?。
皆は、真の愛と答えるだろうが、血統が、続かないと真の愛も成就しない」
と説明(言い訳?)したようだ。


665 :名無しさん@3周年 :03/09/02 12:54
国進さん、離婚してすぐ再婚したらしいな・・・

666 :名無しさん@3周年 :03/09/02 20:01
>>665
別な女とやりたかったから先ずは離婚したんだろうな
つまりは真のお父様と同じ道を進みたかった訳だ。合法的にね。
お坊ちゃん育ちの国進くんにとって、重婚罪で監獄に入るなんぞ
とてもじゃないが耐えられない経験だろう。

668 :名無しさん@3周年 :03/09/03 01:52
>>665
>国進さん、離婚してすぐ再婚したらしいな・・・

はえ~の、なんのって。昨日のきょうだぜ。。
それも、自分で好きな人えらんだってさ。



ソースは定かではありきませんが、2003年当時私が読んでいた掲示板に「国進氏はプレーボーイ」ということが書かれていたのを記憶しています。
はじめは長男の孝進氏のことかと思いましたが、読み返しても四男の国進氏なのです。四男も女性にはだらしないのかな?と、その時はさらりと読み飛ばしていましたが、今になって考えると、上記の掲示板に書き込まれた恋愛結婚でした再婚の関連のコメントだったのでしょう。

しかし、一つ腑に落ちないのは2003年9月の掲示板に書かれた国進氏の女性が「1800双の祝福家庭の娘さん」と書かれていることです。現在の朴知鋭夫人の両親は430双なのですが、もしかして知鋭夫人と出会う前に、別の女性と結婚していたのでしょうか? 話がさらに複雑になりました。

それを裏付けるような内容が、朴知鋭夫人と約婚したとされる2004年6月17日の次の日に語られたみ言葉にあります。

『「姦夫」は、サタン世界で、いちばんの愛の怨讐です。(中略)どろぼうです。事務所に行って美人の秘書がいれば、男性というものは、“あの女性をわたしが奪いたい。”と考えますか、考えませんか? 想像することができますか、できませんか?(「しません。」)
 なぜ「しません。」と言って笑うのですか? 「しません!」としっかりと言えば、先生が「わあ!」とびっくりするのではないですか? 先生が「おっ、史(史光基)先生!」と言うのです。そのようなことを考えませんか?(「はい。」)
 目がないのですね。目がありますか、ありませんか? (「あります。」)自分が結婚した相対、妻よりも美しければ、“一度、取り替えて、一晩でも過ごそう。”と考えてみたことはありませんか? 率直でなければなりません。率直は正義に通じます。(「あります。」)
 考えたそうです。うそです。(笑い)皆、そうでしょう? わたしが尋ねるので、考えたことがないという人は手を挙げてみてください。全員そのような者たちです。
 お母様がちょっと気分が悪くても、しかたがありません。わたしは離婚もしたことがあるのです。そうではないですか? 本当にそのようにして離婚したのなら、妻からあいそを尽かされてもしかたのないことです。本当はそのようなことはしていないのに離婚したので、かわいそうな男であるということだけは理解しなければなりません。
 ですから、同情し、慰労してあげなければならない内容があるということを知る日には、解放の天国の王子王女の特権的盾を持てる人になることができると思うのです。分かりますか?
 それでは、男性として生まれて、“美人を激しく愛したい。”と思う心がなければならないということが総論なので、天使長もエバを愛し、愛をいとおしく思ったのです。それが罪ではありません。
 自分の夫婦の水準、基準を越えて、主人の位置にあるものを、主人が決まっている人(エバ)を強奪したから問題になったのです。婚約した美女がいてそのようにすれば、それを許すことができず、それにプロポーズして問題を引き起こせば、社会の規範によって追い出されるのが法則になっているのです。

 長成的な基準において、結婚して、もし今まで心の中で慕い、愛する人がいたとすれば、“その女性がわたしの相対になっていればよかったのに。”と思うことが罪になりますか? 考えは罪ではありません。
 考えは、東の考え、西の考え、南の考え、北の考えがあり、東西南北の美の存在は、四方がすべて見つめているのです。わたしだけがそのように思うのではありません。その階級が高くても低くても、考えることは同じです。
 “あのような美人がお母さんになれば、わたしたちのお父さんが美女を迎えてお母さんになれば、どれほどよいだろうか?”と考えるのは罪ではありません。
 “わたしの義理のお姉さんになればどれほどよいだろうか? わたしは美女を迎えることができなかったが、わたしの義理のお姉さんがいちばんの美女で、お兄さんが喜ぶのを見て、そのお兄さんを愛して尊敬できればよい。”と思うのは善なることです。
 婚約して結婚する前は、世界の美女の看板(写真)をポケットに、自分の足に、胸に、後頭部に、好きなように、つけて歩いても罪ではありません。信哲、分かりますか? 分からなくてもかまいません。信福、分かりますか?
 しかし一度、決定した後は、それをすべてはがさなければなりません。皆さんは知っているでしょう? はがしてしまわなければなりません。自分が一人で片思いしていたものをすべてはがしてしまい、その時からは、行くべき道が決定的であるということです。
 決定的なものは一つだけであって、二つはありません。二つを持ったまま決定する人は、狂った人なのです。そうではないですか?

 愛の相対を一度に二人決定するのは狂った人です。ぼけているのです。そのようなことを知っているでしょう?
 ですから、神様が願われる万物を造られたとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従するというすべての根本原則、公式は、神様にも変わりなく同じであったのです。ですから、万物も、人間が喜ぶことができる相対的存在として、主体と対象になって授け受けしながら、愛の関係を持つようになっているので、万有の存在はペア・システムになっているのです。アーメン!(「アーメン。」)拍手!(拍手)』
(第四十二回「真の万物の日」記念礼拝の御言2004年6月18日韓国麗水市 清海ガーデン)



文教祖が「二人の女性のうち一人を決めなくてはいけない」と言ったのは、てっきり劉大行氏の娘、劉順珠夫人と朴知鋭夫人のことだとばかり思っていましたが、2003年9月に掲示板に書き込まれた内容を読んでみると2003年9月1日の時点で「1800双の娘さんと再婚(結婚した)」と書かれています。

この話がもし本当だとすると、1800双の祝福家庭の娘さんとも子供ができないで離婚したということなのでしょうか。文教祖も「どちらかに決めなさい」と語っているように、国進氏には、そのとき(2004年当時)複数女性がいたということなのでしょうか?

この両親が1800双の祝福家庭の女性と再婚した時期から、朴知鋭夫人の祝福まで1年の開きがあります。その間に一体なにがあったのでしょう。

あくまで推測ですが、結局付き合っていた女性の一人である朴知鋭夫人に子供ができたので、あくまで表向きは祝福という形で信者に発表したと思われます。

長男の孝進氏も国進氏の様に「自分で選んだ相手」との結婚を文教祖に懇願し、反抗もしましたが文教祖はガンとして受け入れませんでしたし、孝進氏が結婚をしたがっていた恋人には、韓鶴子夫人(お母様)が手切れ金を渡して別れさせています。

以下は長男の孝進氏が1988年に信者に語ったものです。

『孝進としても「霊的」な理由でマッチングされるのはごめんこうむりたかった。会員への一九八八年の演説で、彼はこんなふうな告白をしている。
 韓国にいったとき、私は大勢の女の子とつきあい始めた。わたしはとくにひとりの女の子を本当に愛し、彼女と結婚したかった。彼女の両親は賛成していた。彼らはお父様が大金持ちだと思っていた。彼らは私たちの両方をたきつけ、私を彼らの家に招いた。彼らは私に親切だった。私たちはとても親しくなり、ほとんど一緒に暮らしていたようなものだった。私は彼女と性的な関係をもった。彼女と一緒に暮らすために、自分の力でできることはすべてしかった。私は彼女以外のだれともマッチングされたくなかった。高校に通っていたあいだずっと、放課後は彼女の家で眠るか、彼女が私の家で眠るかだった。
 私は一日にウィスキーを一本飲んだ。金がなければ、安くてよくきくコーン・ウィスキーを飲んだ。いつも酔っていなければならなかった・・・・・わたしはどん底に落ちた。私は自分の心が泣くのを聞いていた。私は息を詰まらせ始めた。私は自殺したかった。どうしてお父様と顔を合わせることができるだろう。私は最良の方法は消えることだと思った。そうすれば、わたしはもう重荷ではなくなる。何度も、私は銃口を頭に突きつけてすわり、それがどんなものかを練習した。私は自分の肉体のことだけを心配していた。わたしはほかの子供たちよりも悪かった。私はそれほど肉欲にふけり、自己中心的だった。自分が他の人びとにどんな影響をあたえているかなど気にかけなかった。私はこのように育っていった。』
(洪蘭淑著「わが父文鮮明の正体」より)



しかし、今回の国進氏が自分で結婚相手を決めたことに関しては、言い訳までしてあっさり認めています。2003年9月の掲示板への書き込みに『文師は、「真の愛と真の血統とどちらが、大切か?。 皆は、真の愛と答えるだろうが、血統が、続かないと真の愛も成就しない」 と説明(言い訳?)したようだ。』とあります。

子供がいない国進氏をみて不憫に思ったのでしょうか。しかし、捨てられた女性の気持ちはどうなるのでしょうか。

本当に文教祖が言い訳(説明)した、このように話したみ言葉があるか調べてみたところ、これかと思われるみ言葉がありました。2004年にも言い訳していますが、2003年にも言い訳していたのですね。

以下2003年5月31日に語られた『第四十一回「真の万物の日」』のみ言葉です。(指摘部分がまとまられなかったので長文で載せます)


『皆さん。“心と体が、いつ一つになったのか?”ということを考えてみましたか? それが問題です。「神様も、心と体が闘うだろう。」と、このように考える人がいますか?
 神様は、「一人のおかた」です。千万種類の事情と、千万種類の曲折の上に立って、自己を主張したとしても、その千万種類のものは、すべて神様に属しているので、一つしかないというのです。
 何を中心として、一つになるのでしょうか? 家庭が幸福ならば、全体が幸福になることができるのですが、その幸福は、何を中心として幸福なのでしょうか? それは、生命体である男性と女性ゆえに幸福なのではありません。
 男性と女性は、誇ることができる美貌によって幸福なのではありません。根源である心と体が美しくなければならず、そして、心と体は、愛が定着することのできる基盤にならなければならないのです。
 そのことを考えるときに、心と体が美しくても、それを神様が全面的にお喜びになることができるでしょうか? 部分的です。部分的なのです。
 それでは、そこに愛というものが介在するようになるとき……。神様ご自身も、孤独なおかたです。お独りでいらっしゃるのです。
 お独りでいらっしゃる神様にとって、慰安となり、幸福として誇ることができるものとは、何でしょうか? 愛というものです。愛は、独りでは成すことができません。このことを知らなければなりません。分かりますか?
 愛は、独りで成すことができますか? (「成すことができません。」)それは、驚くべきことです。いくらりっぱな人であっても……。
 このレバレンド・ムーンが何と言っても、レバレンド・ムーン独りで、心と体が一つになっていても、そこで、見えない心と体が一つになっていても、相対がいなければ、愛が成立できますか、できませんか?(「できません。」)
(中略)
真の愛を中心として、男性なら男性、女性なら女性が絶対的に真であり、美しく、善で一つになった基準であるという結論が出ました。
(中略)
皆さんの心を中心として、一日の生活を見てみるとき、あの女性、この男性と、数多くの人類の男性と女性を見回してみるとき、本当に真を中心として、神様がいつも手放すことができず、「心の宝であり、体の宝であり、環境の宝である。」と誇ることのできるその収穫の実は、一体何でしょうか? それは、美人独りではできません。
 分かりますか? 文総裁が、いくらよくやったとしても、文総裁独りではできません。愛の結実というものは、独りでは成すことができません。絶対に必要なものが相対的なものであるということを知らなければなりません。
(中略)
自分の家庭全体を否定する個人主義を信じるならば、“亡国の種”になっているというのです。そのことを知らなければなりません。この世界は、レバレンド・ムーンがいなければ、すでに滅んでいました。
 三十年間、抱き抱えて、涙のにじんだ闘争をして、家庭復帰です! 「国よりも、家庭が貴い。」と、主張したのです。それは、家庭の天理を語ったのであり、神様の収穫の実は、個人ではなく家庭であり、理想的家庭なのです。
 理想的家庭とは何かというと、上下が、父と子女です。神様とアダムとエバしかいません。分かりますか? 神様とアダムとエバが、父子の関係です。これは間違いありません。分かりますか?
 神様は父であられ、アダムとエバは、何ですか? 息子、娘です。息子、娘なので、息子、娘になるためには、真の愛と真の生命が一つになって、血統が結束するところにおいてのみ、家庭が形成されるのです。
 血統です! りっぱな夫婦が、いくら「ああ! 文総裁が言う理想的夫婦とは、私たち夫婦のことである。」と言って、はと以上に幸福で、おうむ以上に仲むつまじく暮らしたとしても、血統を残さないと、それでは真の夫婦になることはできません。

 なぜ、夫婦になることができないのでしょうか? それでは家庭を築くことができません。家庭には、必ず……。「必ず」と、言ってみてください。必ず!(「必ず!」)夫と妻、子供が必要です。そうでなければ、一代で終わります。
 分かりますか? 一代で終わるというのです。しっかりしなければいけません。いくら愛して、いくら一つになったとしても、子供がなければ、一代で、すべてが終わります。
 地上で豪華けんらんに暮らしたとしても、世の中を捨てたこの人たちが亡くなれば、それで終わりです。そのような人たちは、世の中に生を受け、迷惑をかけていく人たちです。
 それゆえに、迷惑をかけ、世話になる立場に立ったので、そのような人たちは、霊界に行けば、世話になったことを返さなければなりません。収穫の実を返してさしあげなければならないのです。
 収穫することができる良いものがあれば、それを自分のものにしようと考えたので、世話になった人は、平均的神様の愛を知らなければなりません。それは理論的なことなので、地獄は自動的に生じざるをえないという事実を常識的に理解しなければなりません。分かりますか?
(中略)
(女性の)最も美しい時が二十三歳、二十四歳です。二十三歳を超えれば、細胞が死んでいきます。下がっていくのです。結婚も、二十四歳以内に、最も旺盛な時に……。
 ですから、父と母よりも、もっと愛することができる夫婦が、神様から見て、希望の道となることができるのであって、今、父母が子女を愛するのをごらんになって、希望には思われません。分かりますか? そのような夫婦が、米国にいますか? 一組もいないというのです。
(中略)
さあ、もう結論を下しましょう。神様が、最も願われる収穫の根本が、何であるというのですか? 家庭です。
 きょう、「(真の)万物の日」を祝賀する目的も、神様が収穫なさることのできる実となる家庭のためです。「(真の)子女の日」を記念するのも、そうであり、「(真の)父母の日」を記憶すること、「(真の)神の日」を記憶することも、そうです。万宇宙の存在物は、すべて同じ収穫に同居同参することを願うということを知りました。
 それでは、神様の愛、真の愛とは、どのような愛でしょうか? 神様を中心として、失おうにも失うことができず、手放そうにも手放すことができない愛です。一度くっつけば、永遠に離れることができません。
 愛の捕虜になるのですが、愛の世界の喜びを感じた人が、捕虜になったからといって、それで“逃げて行きたい。”と思うでしょうか? その道を行くのです。千年、万年、一生の間、毎日毎日、苦痛を受けても、愛の捕虜になることができる、そのような家庭的相対を迎えた人が、逃げて行くことができるでしょうか?
 皆さん。男性と女性が片思いをして、相手を慕って病気になることを、何というのですか? 韓国では、何というのですか? 何といいますか? (「相思病(恋煩い)です。」)
 それは、韓国語で、そのようにいうのでしょう? 英語では、何というのですか? (「『ラブ・シックネス』です。」)知っていることは知っているのですね。
 そのラブ・シックネスになるとき、その男性が慕わしく、その女性が慕わしいので、王様が来て、どのような宝を与えても、「ぺっ!」と、唾棄するのです。
 それで、その女性が思慕して、そのようなラブ・シックネスにかかって、病気になったとすれば、「小麦粉を持って来なさい。餅を作るのだが、水は持って来るな。」と言って、持って来た小麦粉を、水ではなく、つばで餅を作るのです。
 そのようにして、たくさんではなく、一つだけ餅を作り、そのラブ・シックネスにかかった女性の所に行って、「おい! おい! あなたが思慕する人が、小麦粉を水ではなく、つばでこねて餅を作ったので、これを食べれば、万病に効く。」と言って、食べさせれば、本当に治るでしょうか?

 それは、つばで作った餅を食べている途中で治ってしまうというのです。全部食べてもいないのに……。分かりますか?
 ラブ・シックネスの代表の人たちが、そうであるならば、本当の愛の王子、王女になれば、それ以上になって、悪く批評され、冷遇されることがあるでしょうか? それとも、それ以上に歓迎を受けることができるでしょうか? 言うまでもなく、それ以上に歓迎を受けることができなければならないというのです。
 このような論理が成立するならば、父母の愛も何でもなく、ラブ・シックネスで思慕する、それも何でもなく、神様が訪ねて来られて愛することも何でもなく、自分ばかりを愛するよりも、自分の愛する相対……。分かりますか?
 ラブ・シックネスのその本人に会って、愛することができるその場が、収穫期の“一等結実”です。そのラブ・シックネスにかかれば、そのようになるのです。
 また、普通の親も、ラブ・シックネスのような心で子女を愛するのですが、子女が、父母のために精誠を尽くし、困難なことをやり遂げてささげれば、親の病気も治り、十年の月日を苦労したとしても、それをすべて忘れてしまうというのです。愛が偉大であるということです。
 愛の中では、平和は逃げて行くことができません。永遠にそれが満ちて、“そこに定着して暮らしたい。”と思うのです。真の愛がある所は、そうであるということを理解しましたか?
 ですから、男性として生まれ、女性として生まれて、愛のために狂ったように、“死にたい。”と思う以上の心情で待ち望むことができるのは、何でしょうか? 愛自体を要求する前に、愛の相対を要求しなければなりません。分かりますか?
 その愛の相対を中心として愛するようになるとき、“ああ、真の愛とは、このようなものなのだなあ。”と思うときは……。真の愛の味を味わうようにしてあげれば、男性と女性を失いたいと思うでしょうか、失いたくないと思うでしょうか?
 その横に、より美男子、美女がいたとして、それと取り替えるのは、どうでしょうか? いくら天然痘にかかって、あばたができても、夫婦が愛し合って、死ぬほど愛するようになるとき、愛が芽生えて、実を実らせることができる本軌道に入って行くようになるとき、その夫婦を離すことはできません。分けることができないというのです。
 あばたの夫、あばたの妻が問題ではなく、大きい、小さいが問題ではありません。すべてのものが、オー、オー、オーケイです! 「オー(O)」というのは「オープン」であり、「ケイ(K)」は「キングダム」です。「オープン・キングダム(開かれた王国)」を「オーケイ」というのです。アーメン。英語が良いですね。オーケイ。分かりますか?
 ですから、死んでも愛であり、生きても……。死んでも真の愛を願い、生きても真の愛のために生きるのです。死んでも、真の愛のために死ななければならないという論理を、わたしたちの人生から除去することができないというのが、総体的な結論なのです。ですから、「アーメン」ですか、「ノーメン」ですか?(「『アーメン』です。」)
(中略)
さあ、それでは、今から愛を、どのようにしなければなりませんか? 家庭に入れば、真の愛を持った母の愛が、先です。そうでしょう?
 子供たちが学校に行って、帰って来たとき、「お母さん。」と言って、帰って来ます。「ああ、お兄さん。」と言って、帰って来ますか、「お父さん。」と言って、帰って来ますか? だれを呼びますか?(「お母さんです。」)お母さんです。「お母さん。」と言うでしょう?
 それは、女性もそうであり、男性もそうです。なぜ、皆、お母さんが好きなのでしょうか? 母親は、息子を好みます。もちろん、娘も好みますが、娘よりも息子を好み、父親は、息子よりも娘を好みます。
 そして、学校に行っても、幼い男の子や女の子も、カップルになることを願うでしょう? 相手がいなければ、泣くでしょう? 男の子と男の子をカップルにすれば、泣くでしょう? 男の子と女の子をカップルにしてあげて、初めて喜ぶでしょう?
 目も自分に似ていて、鼻も自分に似ていて、言葉も自分に似ていて、態度も自分に似ている人とカップルになれば、自分のお父さんやお母さん、親戚の八親等まで訪ねて歩きながら自慢するというのです。「やあ、私の相手と、次は間違いなく結婚する。」と言うのです。そのようなことを、たくさん見るでしょう? そのように、うれしいというのです。
 いちばん好きな人と結婚するということにおいて、だれとでも結婚することができるのかというとき、真の愛を中心とすれば、だれとでも結婚するようになっています。なぜ、そうでなければならないのでしょうか?
 お父さんとお母さんの間で生まれたでしょう? それから、お兄さんとお姉さんの間で生まれたでしょう? おじいさんとおばあさん、親戚の八親等、隣近所の愛を受けて生まれました。ですから、自分たちがいくら美人でりっぱであるとしても、お父さんに似た男性がいれば、お父さんを愛した心が、さっと引かれていくのです。
 美人の娘が、お父さんが醜男であるにもかかわらず、お父さんに似た人がいれば、顔が醜いお父さんの愛の懐が慕わしいので、美人であっても、“お父さんに似た若者と結婚したい。”という思いが先に出て来るというのです。幼いときも、そうです。分かりますか?(「はい。」)
 また、お母さんに似た女性がいれば、いくら顔が悪くても、「お母さんは嫌いだ。」と言うことはできないのです。夢でも、どこに行っても、お母さんのことを考えるとき、そのお母さんの(醜い)姿では見えないというのです。愛ゆえに、そのようになるのです。
 愛には、すべての過ちをなくして平準化し、平和の道理によって、天国に直行することができる同役者をつくることができる力があるのです。そうですか、そうではありませんか? あるのです。ですから、真の愛を皆、好むのです。
(第四十一回「真の万物の日」の御言2003年5月31日米国・ワシントン)




このみ言葉の日付をみると2003年5月31日となっています。離婚した時期が5月か6月と推測されますので、離婚してすぐに国進氏が再婚(または一緒に同居?)したのでしょうか?

『神様は父であられ、アダムとエバは、何ですか? 息子、娘です。息子、娘なので、息子、娘になるためには、真の愛と真の生命が一つになって、血統が結束するところにおいてのみ、家庭が形成されるのです。血統です! りっぱな夫婦が、いくら「ああ! 文総裁が言う理想的夫婦とは、私たち夫婦のことである。」と言って、はと以上に幸福で、おうむ以上に仲むつまじく暮らしたとしても、血統を残さないと、それでは真の夫婦になることはできません。』

子供がいることに越したことはありませんが、離婚してまで残さなければいけないのでしょうか?そのときすでに養女までもらっていたというのに。(二人養子をもらっていたと言っている人もいます)

2009年3月2日の訓読会で文教祖はこのように国進氏に語っています。

國進!(はい)自分の子を持ってみると、父親が息子をどれほど愛しているのか分かるようになったでしょう?(はい)憎らしくてもかわいらしくてもかわいいから、私の骨の中に入れても惜しくないのです。こうしても、ああしても良くて、見ているだけで晩年の福の根源が花咲き、その香りと美しい園が私を保護して、園の主人たる神様と共に兄と弟そして父と息子・娘がひとつの家庭の理想的モデルを備えた中心に立ち、香りを漂わせることができるのです。
・・・お母様は十三人産みました。末っ子は男女の双子でした。


国進氏の直系の息子を産んだことを手放しで喜んでいるのがわかります。恋愛結婚でも、相手がにせいだったから許したのでしょう。(文教祖の末娘の情進さんは双子で生まれてきていたようですね。男の子の方は亡くなったのでしょうか。聞いたことはありませんでしたが。)

『ラブ・シックネス(恋煩い)のその本人に会って、愛することができるその場が、収穫期の“一等結実”です。そのラブ・シックネスにかかれば、そのようになるのです。』

国進氏は「恋煩い」にかかるほど大変だったのでしょうか。劉夫人との関係修復のために何ヶ月も入院するほど大変だったと言っていたという信者の証言もあるので、やはり『恋煩い』は相当なものだったのでしょう。

『いちばん好きな人と結婚するということにおいて、だれとでも結婚することができるのかというとき、真の愛を中心とすれば、だれとでも結婚するようになっています。なぜ、そうでなければならないのでしょうか?』

恋愛は思ってもダメだと言っていた文教祖だったのですが、息子のことになると、例外のようです。(自分の好きな人と結婚することは、神を不信することだと文教祖は言っていたのですが。)

『(女性の)最も美しい時が二十三歳、二十四歳です。二十三歳を超えれば、細胞が死んでいきます。下がっていくのです。結婚も、二十四歳以内に、最も旺盛な時に……。』

このとき(2003年当時)朴知鋭夫人の年齢は23歳です。早く子供を産めといっているのでしょうか?