文国進氏の再婚(文教祖の言い訳)(1) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■統一教会に「妻より美女と一晩過ごしたいと思っても罪ではない」という教えはありましたっけ?

『「姦夫」は、サタン世界で、いちばんの愛の怨讐です。(中略)どろぼうです。事務所に行って美人の秘書がいれば、男性というものは、“あの女性をわたしが奪いたい。”と考えますか、考えませんか? 想像することができますか、できませんか?(「しません。」)
 なぜ「しません。」と言って笑うのですか? 「しません!」としっかりと言えば、先生が「わあ!」とびっくりするのではないですか? 先生が「おっ、史(史光基)先生!」と言うのです。そのようなことを考えませんか?(「はい。」)
 目がないのですね。目がありますか、ありませんか? (「あります。」)自分が結婚した相対、妻よりも美しければ、“一度、取り替えて、一晩でも過ごそう。”と考えてみたことはありませんか? 率直でなければなりません。率直は正義に通じます。(「あります。」)
 考えたそうです。うそです。(笑い)皆、そうでしょう? わたしが尋ねるので、考えたことがないという人は手を挙げてみてください。全員そのような者たちです。
 お母様がちょっと気分が悪くても、しかたがありません。わたしは離婚もしたことがあるのです。そうではないですか? 本当にそのようにして離婚したのなら、妻からあいそを尽かされてもしかたのないことです。本当はそのようなことはしていないのに離婚したので、かわいそうな男であるということだけは理解しなければなりません。

 ですから、同情し、慰労してあげなければならない内容があるということを知る日には、解放の天国の王子王女の特権的盾を持てる人になることができると思うのです。分かりますか?
 それでは、男性として生まれて、“美人を激しく愛したい。”と思う心がなければならないということが総論なので、天使長もエバを愛し、愛をいとおしく思ったのです。それが罪ではありません。
 自分の夫婦の水準、基準を越えて、主人の位置にあるものを、主人が決まっている人(エバ)を強奪したから問題になったのです。婚約した美女がいてそのようにすれば、それを許すことができず、それにプロポーズして問題を引き起こせば、社会の規範によって追い出されるのが法則になっているのです。
 長成的な基準において、結婚して、もし今まで心の中で慕い、愛する人がいたとすれば、“その女性がわたしの相対になっていればよかったのに。”と思うことが罪になりますか? 考えは罪ではありません。

 考えは、東の考え、西の考え、南の考え、北の考えがあり、東西南北の美の存在は、四方がすべて見つめているのです。わたしだけがそのように思うのではありません。その階級が高くても低くても、考えることは同じです。

 “あのような美人がお母さんになれば、わたしたちのお父さんが美女を迎えてお母さんになれば、どれほどよいだろうか?”と考えるのは罪ではありません。
 “わたしの義理のお姉さんになればどれほどよいだろうか? わたしは美女を迎えることができなかったが、わたしの義理のお姉さんがいちばんの美女で、お兄さんが喜ぶのを見て、そのお兄さんを愛して尊敬できればよい。”と思うのは善なることです。
 婚約して結婚する前は、世界の美女の看板(写真)をポケットに、自分の足に、胸に、後頭部に、好きなように、つけて歩いても罪ではありません。信哲、分かりますか? 分からなくてもかまいません。信福、分かりますか?
 しかし一度、決定した後は、それをすべてはがさなければなりません。皆さんは知っているでしょう? はがしてしまわなければなりません。自分が一人で片思いしていたものをすべてはがしてしまい、その時からは、行くべき道が決定的であるということです。
 決定的なものは一つだけであって、二つはありません。二つを持ったまま決定する人は、狂った人なのです。そうではないですか?
 愛の相対を一度に二人決定するのは狂った人です。ぼけているのです。
そのようなことを知っているでしょう?
 ですから、神様が願われる万物を造られたとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従するというすべての根本原則、公式は、神様にも変わりなく同じであったのです。ですから、万物も、人間が喜ぶことができる相対的存在として、主体と対象になって授け受けしながら、愛の関係を持つようになっているので、万有の存在はペア・システムになっているのです。アーメン!(「アーメン。」)拍手!(拍手)』

(第四十二回「真の万物の日」記念礼拝の御言2004年6月18日韓国麗水市 清海ガーデン)

このみ言葉は、約婚式のあったとされる2004年6月17日の次の日6月18日に麗水市で行われた「第四十二回「真の万物の日」」の記念礼拝で語られたものです。(その記念礼拝には韓国・日本から4000人の信者が集まり、朝7時から敬礼式、午前10時から野外で記念礼拝を行っています。)

奥さんより美人に心を奪われて一晩過ごしたいと思うのは罪ではないそうです。

さらに婚約して結婚する前は、世界の美女の看板(写真)をポケットに、自分の足に、胸に、後頭部に、好きなように、つけて歩いても罪ではないそうです。

国進氏が劉順珠夫人との婚姻中に美人のミスコリア(朴知鋭さん)と出会って、心を奪われても罪ではないと言っているようなものです。

苦しい言い訳ですね。

国進氏が聖婚前に妊娠させたのはほぼ確定的ですが、いままで、統一教会は信者に「禁欲生活」を強いてきました。

統一教会では祝福前に「恋愛も恋愛感情も禁止」「情欲で男(女)をみてはいけない」、祝福前に恋愛や性関係等の告白文まで書かせて、入教前に婚約者がいた者は破棄させて祝福を受けさせていたくらい男女問題(アダム・エバ問題)には厳格に指導されていました。

純潔を訴えているはずの、統一教会が「妻よりあの美人の女性と一晩過ごしたいと思っても罪ではない」とよく言えたものです。



では以前のみ言葉と比較します。美女と一晩過ごすのは罪じゃないと言っているでしょうか。

『君たちの頭の中は神様のことだけなの? 街頭ですばらしい男に出会って「将来あのような男と結婚してみたいなあ」と思ったことはないの? 男はどうだ?澄ました美人がいて、その歩く姿を見ただけでも、心惹かれてしまいそうな、通りがかりの女性を見て、「奥さんにしたい」と考えたことはないか。一回そのような考えをしたら、三回悔い改めなければならない。そういう鉄則がある。そのような心情圏を清算しなければならない。』
(「マルスム(一)」より)


『美人として美男子を望むのが当然であるか。そうではない。我々が「統一原理」によって教えられたことは「復帰」という問題である。神が願う真なる理想相対、夫婦関係が失われてしまったから、このようなやっかいな世界になってしまった。それを取り戻すにはどうするか。男性として自分が喜ぶ女性を迎える、女性として自分が喜ぶ男性を迎える。その立場だけではない。その限界を乗り越えてそこにはまだまだ立体性をかけ、神も喜び、万物すべてが喜ぶものでなければならない。』
(理想相対 1969年2月4日 東京教会)


美人を見ても、心を奪われたら「三回悔い改めよ」と言っています。
こういう鉄則があるのに、美人に心を奪われた国進氏の再婚は悪くないと2004年6月18日のみ言葉は擁護(弁明)しているように聞こえます。

真の子女は例外ですか?
長男の孝進氏のように、祝福前に彼女がいて、聖婚式をしたあとも恋人と男女関係を続けたことのように隠せばばれないと思っているのでしょうか。

『あなたたち恋愛したい?(「いいえ」)。お嫁に行きたいの?(「はい」)。じゃ恋愛したいということじゃないの?(笑い)。あなたたちはもう天の神様の娘だよ。神様の娘として自分じゃないんだよ。神様のものだよ。神様の娘だから神様の気ままにする。だから結婚という問題は自分の気ままにやっちゃいけない。もしも恋愛した場合には純然たる捧げ物しなければぬぐわれないよ。蕩減過程を必要とする。だから女の子たちは絶対恋愛するな。男の子たちが何か横でペチャペチャしたら、「おい、このサタン、まだ残っているのか、サタンの実体よ、もう選手交代だ!」そうするうだよ。(「はい」エヘヘなんてするなよ』
(「マルスム(一)」より 1970年1月22日のみ言葉)


祝福前、もちろん祝福後も恋愛禁止です。

『統一教会の女性たちは今まで培ってきたその心情を、路傍のつまらん男性なんかに握られるな。踏まれてはいけない。本当は信仰が深くなり、霊的体験をした場合などは、めちゃくちゃに行動できないというんだね。だから愛は神様から。自分からはサタンだよ。神様を押しのけて自分たち同士愛し合おうという、これがサタンの世界である。
(理想相対 1969年2月4日 東京教会)


だから男女関係において恋愛は許されない。寂しい? (いいえ)。本当のことを言いなさい。「はい、寂しいです」と。寂しい? (いいえ)。教えなくても、本心によって恐れているから分かるんだよ。こういう内的価値がはっきり分かった場合には、自分が過去において、この手で、ああいう手紙を書いた、サタンの手先になって、自分の手が動いたこと、これはたまらないほど悔しい! 何遍泣いても泣ききれない。この身でもって、その時は思いもつかなかったけれども、こういうことをなしてきた。サタンの汚れた血によって汚されたこの肉体。
 これを清算するために、自分の肉体を切って処分してしまいたい。しかし、そうして死んでしまうわけにはいかないから、それを清算するための条件が必要である。サタンに使われたこの手、この体、みんな一遍に飛ばしてしまって、神の愛によって始まった肉体はいずこにありや。汚れ果てた関係を保っていこうというのはもってのほかである。こういう心情を体恤した?』
(理想相対 1969年2月4日 東京教会)


兄弟以上の男女関係で、互いに見る者はサタンの実体と同じだ。そういうものは絶対に許されない。そういう要素が少しでもあれば、切っていかなければならない。
 先生は今まで、新しい祝福、新しい家庭のための蕩減条件をあなた方が立てるようにしてやって、みんなの重荷を私が責任をもって背負ってやろうというふうにやった。しかし、先生が責任を果たしたにもかかわらず、あなた方が天法を犯したとするならば、それは何十代の子孫にまで引っ掛かる。恐ろしいことだよ。もしも、統一教会の心情圏を土台として、それを主張してきた者が、自分の気ままに付き合って、結婚して子供を生んだとするならば、原理の限界を越えてしまう。それを誰が責任もつか。神も責任もたない。旧約聖書では、淫行や姦淫の罪を犯した者は、石打ちで殺した。それ以上の者はどうするか。だから、日本においても、こういうことはもっと徹底しなければならない。』
(理想相対 1969年2月4日 東京教会)


『このような貴重な天的賜物を、もしも誤った場合には、行く所はない。サタンもあなたたちを讒訴する。サタンは、自分は長成基準においてサタンになったのだけれど、あなたは完成基準において堕落した大物であるから、わしの僕になれ。サタンが裁く。最後の道だから行く所がない。深刻なものだ。いいかげんな、世の中の、流れてしまうような結婚と思ったら大間違いだ。天宙の心情を中心とした、貴重な時期である。』
(血統的転換1970年10月13日韓国・水沢里)


「統一教会の心情圏を土台として、それを主張してきた者が、自分の気ままに付き合って、結婚して子供を生んだとするならば、原理の限界を越えてしまう。それを誰が責任もつか。神も責任もたない。」って国進氏のことですか?
神も責任持てないそうです。祝福を受けての堕落(配偶者意外の男女関係)はアダムやエバのときより、サタンが裁くそうです。これは、聖婚前に性関係を持ったら、祝福を受けた信者も同様です。

恋愛をした信者に文教祖の言った言葉・・・・

『気分が良くないね。いろいろやってきたんだろう。手紙をやるのは平気だし、付き合うのも平気、ウインクなんかは、もうちょっとエンピツを買うぐらいの平気な顔をしてやっている。そんな者が祝福を受けるなんて、先生は気分が悪い。本来の祝福の基準は、そんな気持ちの悪い環境は全然なかった。原理から見れば、あなた方にはその資格はない。』
(理想相対 1969年2月4日 東京教会)


気持ちが悪いというアダムエバ(恋愛)問題。「本来の祝福の基準は、そんな気持ちの悪い環境は全然なかった。」というのなら、原罪のない真の子女は本来の祝福の基準であって当然であるはずが、自分の息子に限っては「恋愛感情OK」ですか。

しかし、文教祖はお得意の霊能力で全てお見通しだそうです。

『先生には、こういうことがあるんだよ。霊界のほうから、「先生聞け」と言ってくる。聞いてみれば、みんなやっかいなことがあるんだよ。何のことか。みんなお金のことか男女関係のことだ。先生はみんな分かるよ。だからそんなこと聞きたくない。しかし、彼らはそれをどうしても解決したい。今まで真っ暗な闇の中に隠されていたものが、白昼の中に飛び出すことになる。それはサタンの陣営が、白昼の中でボロボロになってしまうことである。だから新しい世界の出発基準が立つというんだね。
 日本のほうでも、祝福とか何とかということで、男女関係がぼちぼち出てきている。自分勝手な約束をしても、先生は知っている。』
(理想相対 1969年2月4日 東京教会)


ということは、国進氏の約婚のあと聖婚式前に妊娠したのは、文教祖公認というですか・・・?

でもこのみ言葉との整合性はどうしますか?

約婚して夫について行き、ホテルの部屋を二つ取りますか、一つ取りますか? では、寝る時に、ベッドを二つ置いて寝ますか、一つ置いて寝ますか? 尹博士!
(「二つです」)。何年間ですか? 七年間そのように暮らしましたか? 七年間です。蕩減路程です。七年間そのように暮らした家庭で、祝福を受けることができずに、霊界に行った人たちがいます。私が行くや否や、祝福してあげようと思うのです。その息子がいるのですが、母親が先に霊界に行き、一人でかわいそうに暮らしています。その息子を私が助けてあげようと思うのです。』
(「六千年役事大解怨式」でのみ言葉 2002年4月4日)


『それで統一教会員は、婚約してからもばらばらに離れているのです。「ああ、会いたい」と言って電話するとしても、それは、夫、妻にするのではなくて、兄に、妹に電話するのです。約婚中においては、本然の女性は妹であり、本然の男性は兄です。私たちは真の兄妹の段階を通過しなければなりません。それで統一教会員は、兄妹期としての約婚段階を経るのです。結婚式をやったとしても、ある期間は真の男性、女性となって、真の夫、妻となる準備をします。そうせずしては、真の子女の前では、恥ずかしいのです。婚約段階のアダムとエバが堕落したので、皆さんは真の男性と女性として、一つになって真の父母の相続権を受けるために、真の本然のプラスの人間の前に一つにならなければならないということは極めて妥当な論理です。』
(天勝日のみ言葉 1983年10月4日)


私の感想。文教祖は息子のためなら聖婚式の日付を隠蔽し、「原理」も曲げるということがわかりました。