2015年晩秋の京都旅行です
左の女の牛の井戸?
最終日。堀川通りをうろうろしていたら、
――「うろうろ」と言っても、修験者のような姉と一緒に歩いていたので、
私は息を切らせて小走り状態なのではあったが――
西本願寺のちょっと北側の堀川通り沿いに、
「左女牛井之跡」なる石碑が。Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
左の女の牛の井戸?
ナニコレ!? と思ったが、(=◇=;)
姉はスタタタ~と歩いていってしまうので、
慌てて写真に収め、姉の後を追ったのであった。
で、後日落ち着いて調べたらば、
「左女牛井」は「さめがい」と読むのだった。Σ(・ω・;|||
「平安時代からの名水」が、かつてここにあった井戸から汲まれていたらしい。∑(゚Д゚)
この辺りは、「源氏六条堀川館」なる源氏の館が建っており、
「義家、為義、義朝、義経」がここを拠点として活躍していたらしい。∑(゚Д゚)
立て札の説明を読むと、井戸の辺りこそが「源氏六条堀川館」なのかと思えるのだが、
とあるサイトの地図を見ると
↓
(ネットより拝借画像「源氏六条堀川邸跡周辺」)
源氏六条堀川邸は西本願寺と東本願寺の間辺りにあったようだ?(-_☆)
左女牛井の井戸からはちょっと遠い。
しかし、この地図を信じるならば、ここら全体「源氏六条堀川館」の敷地だったのかもしれない?
義経の邸は別にもあったようだし……?| 壁 |д・)
源氏の館の敷地の広さがただ事ではない。
いずれにしても、源氏……相当な力を見せ付けていたってことか。
しかし、源氏六条堀川館は、
義経が「京都を逃れたあと焼き払われ、敷地内にあった左女牛井だけが残った」とな。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
その後、この左女牛井は、
「南都の僧村田珠光」や利休などの茶人たちに愛されたらしい。
江戸初期には織田有楽斎によって改修されたとな!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
それでも、
結局、名水「左女牛井」の井戸は、天明の大火で埋もれてしまったらしい。
現在、「四条堀川から少し東へ歩いた醒ヶ井通の角」にある「亀屋良長本店」(カメヤヨシナガ ホンテン)なる和菓子屋さんが、
「平成3年に社屋を新築したおり、昭和37年の阪急地下鉄工事の影響で枯れていた井戸を掘り直し、『醒ヶ井』と名付けて再び菓子づくりに用いるようになったそうです。」
とな。Σ(・ω・ノ)ノ!
地下80mから汲み上げているそうな。Σ(・ω・;|||
地図を見ると六条の左女牛井の石碑から四条の亀屋良長本店までは距離にして1kmほど離れているように見えるが、
「左女牛井」が「醒ヶ井」と表記も変わってしまっているが、
地下80mでは、かつての「左女牛井」から汲まれていたのと同じ水が汲み取れているということか。
この井戸をきちんと知っていたら、和菓子屋さんにも寄ってみたのになぁ。((>д<))
立て看板の説明に、おまけ説明として、書いておいてくれればいいのに~。ヽ(;´Д`)ノ
「京都盆地の地下には琵琶湖の水量に匹敵する211億tもの地下水が貯えられてい」るらしい。(=◇=;)
京都のあちこちで、平安の頃から今に至るまで、
「京都の名水」が汲み上げられ続けているって、素晴らしいことだ。(-^□^-)
ところで、「左女牛井」……
なんで、こんな変わった名前なのか、
それはちょっと調べただけではわからなかった。(→o←)ゞ
今も、「六条通が堀川通と接する北側に、左女牛井町という町名が残っています」って。∑(゚Д゚)
「左女牛井」って、地名ありきだったのかな?
“この通りを左側から女が牛を引いてやってきた”という物語でもあるのかしら? 謎です。
追記:
看板に書かれている「南都の僧村田珠光」って、誰?
……だったので、これも調べる。
なんと、一休さんと同時代に生きていた人だった。ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ
↓
「能阿弥により整備された会所の茶から能や連歌の影響を受け
一休宗純との関わりから禅を学び、
能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求しわび茶の精神をつくった。」
(ウィキペディア)
村田珠光(ムラタ ジュコウ orシュコウ)……一休さんに禅を学んだお方だった。
京都についてあれこれ調べていると、色々なところで色々なことが繋がってきて
面白し。( ´艸`)
参照:
「左女牛井之跡」
「京都検定合格を目指す京都案内」
左の女の牛の井戸?
最終日。堀川通りをうろうろしていたら、
――「うろうろ」と言っても、修験者のような姉と一緒に歩いていたので、
私は息を切らせて小走り状態なのではあったが――
西本願寺のちょっと北側の堀川通り沿いに、
「左女牛井之跡」なる石碑が。Σ(・ω・ノ)ノ!
↓
左の女の牛の井戸?
ナニコレ!? と思ったが、(=◇=;)
姉はスタタタ~と歩いていってしまうので、
慌てて写真に収め、姉の後を追ったのであった。
で、後日落ち着いて調べたらば、
「左女牛井」は「さめがい」と読むのだった。Σ(・ω・;|||
「平安時代からの名水」が、かつてここにあった井戸から汲まれていたらしい。∑(゚Д゚)
この辺りは、「源氏六条堀川館」なる源氏の館が建っており、
「義家、為義、義朝、義経」がここを拠点として活躍していたらしい。∑(゚Д゚)
立て札の説明を読むと、井戸の辺りこそが「源氏六条堀川館」なのかと思えるのだが、
とあるサイトの地図を見ると
↓
(ネットより拝借画像「源氏六条堀川邸跡周辺」)
源氏六条堀川邸は西本願寺と東本願寺の間辺りにあったようだ?(-_☆)
左女牛井の井戸からはちょっと遠い。
しかし、この地図を信じるならば、ここら全体「源氏六条堀川館」の敷地だったのかもしれない?
義経の邸は別にもあったようだし……?| 壁 |д・)
源氏の館の敷地の広さがただ事ではない。
いずれにしても、源氏……相当な力を見せ付けていたってことか。
しかし、源氏六条堀川館は、
義経が「京都を逃れたあと焼き払われ、敷地内にあった左女牛井だけが残った」とな。Σ(=°ω°=;ノ)ノ
その後、この左女牛井は、
「南都の僧村田珠光」や利休などの茶人たちに愛されたらしい。
江戸初期には織田有楽斎によって改修されたとな!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
それでも、
結局、名水「左女牛井」の井戸は、天明の大火で埋もれてしまったらしい。
現在、「四条堀川から少し東へ歩いた醒ヶ井通の角」にある「亀屋良長本店」(カメヤヨシナガ ホンテン)なる和菓子屋さんが、
「平成3年に社屋を新築したおり、昭和37年の阪急地下鉄工事の影響で枯れていた井戸を掘り直し、『醒ヶ井』と名付けて再び菓子づくりに用いるようになったそうです。」
とな。Σ(・ω・ノ)ノ!
地下80mから汲み上げているそうな。Σ(・ω・;|||
地図を見ると六条の左女牛井の石碑から四条の亀屋良長本店までは距離にして1kmほど離れているように見えるが、
「左女牛井」が「醒ヶ井」と表記も変わってしまっているが、
地下80mでは、かつての「左女牛井」から汲まれていたのと同じ水が汲み取れているということか。
この井戸をきちんと知っていたら、和菓子屋さんにも寄ってみたのになぁ。((>д<))
立て看板の説明に、おまけ説明として、書いておいてくれればいいのに~。ヽ(;´Д`)ノ
「京都盆地の地下には琵琶湖の水量に匹敵する211億tもの地下水が貯えられてい」るらしい。(=◇=;)
京都のあちこちで、平安の頃から今に至るまで、
「京都の名水」が汲み上げられ続けているって、素晴らしいことだ。(-^□^-)
ところで、「左女牛井」……
なんで、こんな変わった名前なのか、
それはちょっと調べただけではわからなかった。(→o←)ゞ
今も、「六条通が堀川通と接する北側に、左女牛井町という町名が残っています」って。∑(゚Д゚)
「左女牛井」って、地名ありきだったのかな?
“この通りを左側から女が牛を引いてやってきた”という物語でもあるのかしら? 謎です。
追記:
看板に書かれている「南都の僧村田珠光」って、誰?
……だったので、これも調べる。
なんと、一休さんと同時代に生きていた人だった。ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ
↓
「能阿弥により整備された会所の茶から能や連歌の影響を受け
一休宗純との関わりから禅を学び、
能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求しわび茶の精神をつくった。」
(ウィキペディア)
村田珠光(ムラタ ジュコウ orシュコウ)……一休さんに禅を学んだお方だった。
京都についてあれこれ調べていると、色々なところで色々なことが繋がってきて
面白し。( ´艸`)
参照:
「左女牛井之跡」
「京都検定合格を目指す京都案内」