「夫婦世界旅行―妻編」は只今中断中。
2009年桜旅行①山科(ヤマシナ)
3月末、毎年恒例となった母・姉・私の3婆で桜旅行へ出かけた。
今年も姉のお見立てで、行く先は京都。
たった1泊の慌ただしい旅行である。
1つ所で1日中まったりしたいタイプの私と違い、姉は総力を挙げて京の春を堪能せんとする。
よって、私にとってはかなり過酷な旅なのであった。
まず1日目前半は、山科方面を周る。
足の弱ってきた母のため、タクシーを極力使うことにする。
タクシーは30分ごとに幾らと計算され、3時間で大体1万円前後。
(私感:MKタクシーが一番安くてサービスもよいと思う。もちろん、それ以外のタクシーも親切ではあったがちょっと高かった。)
京都駅近くのホテルからタクシーに乗り込み、山科へ向ってもらう。
東山を眺めながら進む。
「山科の辺りは昔から何もないんですよ。」と運転手さん。
「でも、陶器で有名だったでしょ?」と母。
“山科が陶器で有名”だなんて話は聞いたことのない初老娘二人(姉と私)は、また母が妙なことを言い出したと呆れる。
しかし、運転手さんは、「あぁ、そうですね。陶器で有名ですねぇ。」と応じる。Σ(・ω・ノ)ノ!
富山生まれなれど、育ちは京都。ずっと京都に住んでいるという運転手さんの言うことならば、かなり信憑性が高い。
ガイドブックの地図には「清水焼団地」なる地名が乗っていて、
なぜに「山科」に「清水焼団地」? と不思議に思っていたのだが、
どうやら清水焼を焼く陶工師たちが、集団で「清水団地」辺りに住んでいたらしい。(=◇=;)
母の言もあながち嘘八百ではなさそうだ。
気をよくした母は、「私は京都に詳しいのよ。」と胸を反らせる。
「昔よく来たものよ。駅前に、観光用でない人力車が止まっていたものよ。」と続ける。∑(-x-;)
運転手さんは驚いて、「それはいつぐらいのことですか?」と聞いてくる。
「(昭和)25年頃ですかしら。」思い出を手繰るように母。
「はぁぁぁ~。」運転手さんは優しい人で、ちょっと驚いてみせる。
黙って耳を傾けていたが、
昭和25年と言えば、戦後である。
すでにタクシーなどが頻繁に走っていたのではなかろうか?
つっこむと面倒なので、人力車についてはもう誰も何も言わない。
交差点で、「大石(オオイシ)道」なる通りが現れる。
これはかつて大石内蔵助が昼行灯を装って祗園へ通った通りだと言う。Σ(・ω・ノ)ノ!
山科は都の中心部から外れた山中のように思われるが、実は祗園へ一番通りのいい地なのだそうだ。
ほぉぉ。
こうした現地に来なければわからない地の利情報は面白い。
祗園に通いやすいから、祗園で働く水商売関係の女性が多く住む。
すると、その“紐”のヤクザな男も多く住む。
そんな地は、やはり隠れ住むにはうってつけだったのだろう。
山科には大石内蔵助が隠棲していた「岩屋寺(イワヤジ)」なる寺がある。
寺には討ち入りで使われた手槍なども保存されているという。
山科駅近くには、大石内蔵助が討ち入りの際に使った刀を作ったという鍛冶屋が、今は和菓子屋になって、「義士餅」など、“赤穂浪士討ち入り”にちなんだネーミングの菓子を売っているらしい。
(私なら、47種類の表情の人形焼を詰め合わせた「47士饅頭」とか、「“殿中でござる”最中」とか作りたいもんだが。)
山科は大石内蔵助討ち入りゆかりの地でもあるのだね。
大石内蔵助や赤穂浪士討ち入りファンにはなかなか面白い地だろう。
私はあの赤穂浪士討ち入りの話には“異議あり!”なので、寄る気もない。┐( ̄ヘ ̄)┌
好きでもないのに、先日も、歌舞伎「元禄忠臣蔵」を見(る羽目になっ)たことが思い出され、
(実際私は95%居眠りしていたのだが)
「片岡仁左衛門はいい!」ってな話をしていたら、
運転手さんも片岡仁左衛門さんが好きらしく、
以前、タクシーの無線で南座に出演していた“片岡仁左衛門さんのお帰り車”要請をキャッチして、駆けつけて待っていたと言う。
しかし、乗ってきたのは別の役者さんで、がっかりしたという話を聞かせてくれた。
タクシーの運転手さんも、乗せたい客というのがあるのだね。
案外ミーハーである。
なんだか、ほほえましい。
(↑開花まであと一息の桜)
つづく
2009年桜旅行①山科(ヤマシナ)
3月末、毎年恒例となった母・姉・私の3婆で桜旅行へ出かけた。
今年も姉のお見立てで、行く先は京都。
たった1泊の慌ただしい旅行である。
1つ所で1日中まったりしたいタイプの私と違い、姉は総力を挙げて京の春を堪能せんとする。
よって、私にとってはかなり過酷な旅なのであった。
まず1日目前半は、山科方面を周る。
足の弱ってきた母のため、タクシーを極力使うことにする。
タクシーは30分ごとに幾らと計算され、3時間で大体1万円前後。
(私感:MKタクシーが一番安くてサービスもよいと思う。もちろん、それ以外のタクシーも親切ではあったがちょっと高かった。)
京都駅近くのホテルからタクシーに乗り込み、山科へ向ってもらう。
東山を眺めながら進む。
「山科の辺りは昔から何もないんですよ。」と運転手さん。
「でも、陶器で有名だったでしょ?」と母。
“山科が陶器で有名”だなんて話は聞いたことのない初老娘二人(姉と私)は、また母が妙なことを言い出したと呆れる。
しかし、運転手さんは、「あぁ、そうですね。陶器で有名ですねぇ。」と応じる。Σ(・ω・ノ)ノ!
富山生まれなれど、育ちは京都。ずっと京都に住んでいるという運転手さんの言うことならば、かなり信憑性が高い。
ガイドブックの地図には「清水焼団地」なる地名が乗っていて、
なぜに「山科」に「清水焼団地」? と不思議に思っていたのだが、
どうやら清水焼を焼く陶工師たちが、集団で「清水団地」辺りに住んでいたらしい。(=◇=;)
母の言もあながち嘘八百ではなさそうだ。
気をよくした母は、「私は京都に詳しいのよ。」と胸を反らせる。
「昔よく来たものよ。駅前に、観光用でない人力車が止まっていたものよ。」と続ける。∑(-x-;)
運転手さんは驚いて、「それはいつぐらいのことですか?」と聞いてくる。
「(昭和)25年頃ですかしら。」思い出を手繰るように母。
「はぁぁぁ~。」運転手さんは優しい人で、ちょっと驚いてみせる。
黙って耳を傾けていたが、
昭和25年と言えば、戦後である。
すでにタクシーなどが頻繁に走っていたのではなかろうか?
つっこむと面倒なので、人力車についてはもう誰も何も言わない。
交差点で、「大石(オオイシ)道」なる通りが現れる。
これはかつて大石内蔵助が昼行灯を装って祗園へ通った通りだと言う。Σ(・ω・ノ)ノ!
山科は都の中心部から外れた山中のように思われるが、実は祗園へ一番通りのいい地なのだそうだ。
ほぉぉ。
こうした現地に来なければわからない地の利情報は面白い。
祗園に通いやすいから、祗園で働く水商売関係の女性が多く住む。
すると、その“紐”のヤクザな男も多く住む。
そんな地は、やはり隠れ住むにはうってつけだったのだろう。
山科には大石内蔵助が隠棲していた「岩屋寺(イワヤジ)」なる寺がある。
寺には討ち入りで使われた手槍なども保存されているという。
山科駅近くには、大石内蔵助が討ち入りの際に使った刀を作ったという鍛冶屋が、今は和菓子屋になって、「義士餅」など、“赤穂浪士討ち入り”にちなんだネーミングの菓子を売っているらしい。
(私なら、47種類の表情の人形焼を詰め合わせた「47士饅頭」とか、「“殿中でござる”最中」とか作りたいもんだが。)
山科は大石内蔵助討ち入りゆかりの地でもあるのだね。
大石内蔵助や赤穂浪士討ち入りファンにはなかなか面白い地だろう。
私はあの赤穂浪士討ち入りの話には“異議あり!”なので、寄る気もない。┐( ̄ヘ ̄)┌
好きでもないのに、先日も、歌舞伎「元禄忠臣蔵」を見(る羽目になっ)たことが思い出され、
(実際私は95%居眠りしていたのだが)
「片岡仁左衛門はいい!」ってな話をしていたら、
運転手さんも片岡仁左衛門さんが好きらしく、
以前、タクシーの無線で南座に出演していた“片岡仁左衛門さんのお帰り車”要請をキャッチして、駆けつけて待っていたと言う。
しかし、乗ってきたのは別の役者さんで、がっかりしたという話を聞かせてくれた。
タクシーの運転手さんも、乗せたい客というのがあるのだね。
案外ミーハーである。
なんだか、ほほえましい。
(↑開花まであと一息の桜)
つづく