パリ4日目。眼福・“舌福”、大満足でルーヴル美術館を後にしました。6時間ほどしかいなかったけれど、美術館に6時間って、結構長いです。しかし、さほど疲れていません。興奮が冷め遣らないせいでしょう。しばらくは夕暮れ時のパリを散歩することにしました。





part159 椅子も空も木陰も自由!(チュイルリー公園) 





要約: ルーヴル美術館を後にして、そのままふらふら散歩した。公園ではチェアがたくさん置いてあって自由に使ってよいので、日本ではありえないくつろぎ方で楽しんだ。フランスの公園には日本の公園にはない開放感がある。やがてコンコルド広場で日が暮れ、夜に怯えるようにホテルのそばまで帰ったのだが、カフェは軒並み閉まっており、夕食は缶ジュース一本となったのであった。












さて、ルーブルを出て、西に進むと美しい広場が続いていた。まだまだルーブルの敷地内なのだろうか。木々が美しく整えられていて、宮殿の庭園という感じだ。





(追記:ガイドブックと照らし合わせると、どうやら、ルーブルの西に広がるカルーゼル広場、カルーゼル庭園を通って、チュイルリー公園を歩いていたようだ。)





観覧車が2つも設置されている。遊園地も兼ねているのか? その観覧車の回転の速いこと、速いこと。一体皆どうやって降りているのかしら? 見ているこちらが心配になるほどのスピードで回っている。 (観覧車乗り場がとこにあるのか、不明のまま。)





広場には大きな噴水があって、軽やかに水を噴き上げている。





その水盤の回りに随分沢山のチェアが置いてある。どれも、脚は40cmほどの、やや小ぶりの一人掛けの鉄製の椅子である。大き目のと小さ目のとある。





椅子は木陰の辺りに沢山置かれている。30~40個ほどあるだろうか。みんな、そこから勝手にひとつふたつと椅子を持ち出して、お気に入りの場所に運ぶようだ。





手頃な日陰に椅子を運び、姿勢正しく座り、静かに読書を始める人。ただぼんやりと噴水を眺めている人。座ったまま眠っているらしい人。





大学生だろうか、5、6人が輪になってノートを膝の上に広げながら話し合いをしているグループもいる。一人掛けの椅子ならではできる光景だね。





白人の若い女とみると、自分の椅子を近くに寄せていって、言い寄る黒人の男もいた。女がぷいと椅子を立って行ってしまうと、その男はやや手持ち無沙汰に手の平を擦り擦り、そのまま椅子に座っているのだが、すぐさまぴくっと首を上げると、軽く腰を浮かせて、中腰のまま自分の椅子をずりずり引きずって移動していく。何をするのかと見ていると、次なる白人女性の横に陣取って、またも何やら言い寄るのだった。





陽射しはだいぶ優しくなったとはいえ、まだ燦々と降り注ぐ。その陽射しのど真ん中、噴水の周りに椅子を2つ持ち出して、大き目の椅子に深く腰かけ、小さめの椅子はスツール代わりにして、その座席部分に土足のまま足を乗せ、日光浴をしている人もいる。





皆自由に椅子を利用している。そのくせ椅子はたいして汚れてもいないのだ。





日本の公園のベンチはどこも固定式だから、この公園のように椅子を自由に移動させられるということは、実に新鮮だった。





そして、公園で一人掛けの椅子というのも初体験だ。これならベンチで隣に知らない人がぴったり座ってくるというような気詰まりな、微妙な緊張感など感じなくて済む。一人掛けの椅子様々だ。





我々も一人2脚椅子を占領して、木陰に陣取った。大きめの椅子に腰掛け、小さめの椅子に土足のまま足を乗せてみる。足に溜まった血がゆっくりと動き始めるような感じがしてくる。





(公共の椅子に土足のまま足を乗せるなんてことは日本ではしたことがないので、何かいけないことをしているような、軽犯罪でも犯しているような多少の後ろめたさを感じ、少しドキドキしたが、と同時に、 「こんなこともできちゃう! 」 という軽い解放感も感じる。)





こうして座ってみると、意外と体は疲れていたことがわかる。やはり中年の体に6時間の美術鑑賞はちくと応えたようだ。





そのままゆったりとのけぞり、空を木陰から仰ぐ。濃い緑の天蓋にきらきらと木漏れ日が眩しい。噴水に目をやれば、日を受けてきらきらと水は跳ね輝いている。





ぼーっとしていてもよし。読書してもよし。鼻歌を歌ってもよし。昼寝をしてもよし。椅子も好きなだけ使ってよし。 (と言っても、せいぜい一人2つ使うくらいしかないが。) 騒ぐ人もいない。自動車の喧騒は遠くかすかに聞こえ、この目の前に広がる空間は、濃い緑、夏の陽射し、ひんやりした木陰と水のきらめき。大きな水盤に広がる波紋が、次第に自分の中にも広がって、じわじわと中から外へ広がっていくイメージ。





何も考えず、ただルーブルの余韻が波紋のようにじわじわと自分の中に広がっていく感覚を楽しむ。木陰の涼しさが私を浸していく感覚を楽しむ。贅沢な一時を過ごした。





日本の 「公園」 では味わえないひと時であった。スペースの問題だろうか。それはもちろんだが、おそらく 「公園」 の概念が違うとしか思えない。日本の 「公園」 は子供のためにしか作られていないものが多すぎるのではないか。メンテナンスの力の入れ方も段違いのように思われる。 「公園」 の管理などはフランスではどういうことになっているのだろうか。





さて、木漏れ日をたっぷり “吸った” 。思いっきり伸びをして、美しい公園を後にする。





その広場を更に西に行くと、もう少し小さいが相当な工夫が凝らしてある噴水が吹き上げている広場に出た。噴き上げる水の強弱がみごとに計算されている。水が城のようだ。ヨーロッパにいると、立体の美しさというものをしみじみ感じさせられる。





噴水の傍には細長い三角柱の柱が建っている。 





(追記:この 「三角柱」 と見えたものは、 「1829年、エジプトの副王ムハマッド・アリからシャルル10世に送られたクルソール神殿の塔(by 『地球の歩き方』)」 だったようだ。げげ? そんなすごいものだったのか? もっとよく観てくればよかった。おまけにガイドブックには 「オベリスク」 と紹介されているので、塔は三角柱ではなく、四角柱であるらしい。)





広場は、凱旋門のように信号のない交差点にでもなっているのか、始終車がグルグル走り回っている。忙(せわ)しいところだなぁ。





すると、なんと、その広場こそがコンコルド広場であった。凱旋門から東に延びているシャンゼリゼ通りの西の突き当たりに位置している広場である。





マリー・アントワネットを始め、何千という人々がギロチンにかけられた場所であるという。今はそんな血なまぐさい面影はない。喧騒に湧きかえる都会の一画に過ぎなかった。





しかしいつしか夕暮れの始まった柿色の空に、ルクソール神殿の塔の硬いシルエットは文句なく美しく、その塔の足元で忙しく行き来する車の流れは、現代という時代に波立ちながらも古代からの営みを燦然と誇り、その精神を維持するフランスの気骨をまざまざと見せ付けるのでもあった。





さて、うっとりと車の流れとオベリスクに見とれているうちに、空はみるみるうちに暗く蒼く夜の帳を下ろし始めた。 「帳を下ろす」 という表現がぴったりくる。さぁぁっと夜の訪れる絹ずれの音が聞こえるようだ。





パリの夜は物騒。うかれてうろうろ歩いてなどいられない。お腹もすいたが、ここらで食事などしていたら、夜のメトロに乗らなくてはならない。夜のメトロ……一段と物騒そうだ。夫婦して小心者なので、とっとと帰ることにする。 





すっかり暗くなった街をメトロに乗ってカデ駅まで帰ってきた。ホテルまでの途中の道で何か軽く食べられる店でもあろうと当て込んでいたら、ない。なーんにもない。ありゃりゃ?





 日曜だからか? そういえば、ヨーロッパは土日はお店がお休みで大変だということを聞いたことがある。本当だったのか!? こりゃ、困った。





中心街 (繁華街というべきか?) に戻れば何かしら営業していようが、いまさらまた中心街に戻って食事するのも面倒だ。しかし、夕食抜きも辛い。





 ホテルを通り過ぎ、どこか、なにか、売ってないか~とぷらぷら、すっかり暗くなった通りを歩いてみた。もう一本先の大通りに昨日は開いていたカフェが、今は閉まっている。小さな食料品店だけかろうじて営業していた。





 食料品店というよりよろず屋という感じだ。間口が半畳ほどしかない狭い細長い小さな店だ。入ってすぐのところにアイスボックスが置いてあり、ジュース類が氷水に浸けられている。 (いまどき、なぜ冷蔵庫を置かないのだろう?) 壁は一面棚になっていて、見慣れない缶詰や瓶詰めがずらりと並んでいる。ラベルの色も褪せたような古臭いものばかりで、どれも埃を被っている。一体、何か売れることがあるのだろうか? 





葡萄の葉で包んだ小さなオハギのようなものの缶詰とか、ラベルの絵を見ても一体何なのかよくわからない缶詰ばかりだ。もしかしたら、パリに住む異邦人のための食料品店なのかもしれない。トルコやアフリカの各国の食料って感じ? 面白そうだが、どれもかなりいいお値段なので、試してみるのは諦めた。 (缶切りも持っていないしね。)





こちらの不安をよそに、アイスボックスの向こうにごちゃっと山積みになった雑貨を背に、在庫の一部と化したような店の親父がにこやかに我々を眺めている。 (この愛想のよさ! 彼はフランス人ではあるまい!)





小柄で肌は浅黒く、太くて黒い眉毛の下に、落ち窪んだ黒い瞳はちと頑固そうだが、人懐こそうでもある。痩せたトルコ人って感じである。縦じまのシャツが似合いそうだ。





(休日に店を営業しているのは、ユダヤ人が多いらしいので、もしかしたら、ユダヤ人だったのかもしれない。)





 親父の周りにはとにかく物がごちゃごちゃあって、アイスボックスの向こうにいる親父が実は立っているのか何かに座っているのか、よくわからない。





が、我々がアイスボックスの中のジュースを探し始めると、ひょいと身を屈めたり腕を伸ばしたりして、機敏に我々の求めるジュースを取り出そうとしてくれる。





アイスボックスの氷水の中には、棚と同じく乱雑にさまざまなジュースが沈んでいた。これまた一体何のジュースだか、缶のデザインだけではよくわからない代物が多い。ジンジャ・エールが飲みたかったが、フランス語でジンジャ・エールってなんて言うの? はたと困り、即、ジンジャー・エールは諦め、目についたピンク色のかわいい缶を指差してみた。





親父さんは、シャツの袖を捲くり上げ、ジュースを取ろうとしてくれるのはいいが、私の指差すジュースとは違うジュースばかりを掴んでくる。おまけに、親父さんがジュースを取ろうとするたびに、他のジュース缶の山が崩れて、私の指差したジュースがジュース缶の谷間に滑り落ちていく。まるでジュース掘りでもしている状態になるのであった。





親父さんには私が何を指差しているのかよくわからないようだ。 (そりゃそうだ。とにかく乱雑きまわりないアイスボックスなのだから。) こうなったら、オレンジジュースでいいや。オレンジジュースなら絶対置いてあるだろう。「じゅどら~んじゅ! jus d’orange! (オレンジジュース)」を連呼してみる。





親父さんは私が求めているのはわかってくれたようだが、肝心のオレンジジュースがさてどこらへんに埋まっているか? ってな感じで発掘作業にかかる考古学者よろしく、じっとアイスボックスの水面を見つめる。ああ。オレンジジュースなんて一般的なものは、かえって置いてないのかもしれない。





も~、いいや。水だ。水。水を下され! と言おうとしたら、親父さんがやけを起こしたようにやにわにその細い腕を氷水の中に深々と差し込み、がごんがごん。缶の山を底から突き崩し、果たせるかなオレンジの絵の付いた缶ジュースを一本掘り出してくれたのであった。





夫はこんな一幕を何も言わず、そばでじっと見ていた。そして、一言、 「僕は水ね」 。水とジュースで28.3フラン(約490円)! なんと高い! 休日割り増し料金か? 





ルーヴル美術館のカフェで取ったお昼は、二人で157フラン(約2,700円)。ランチとしてはちょっと高いが、わけのわからぬ缶ジュースと水だけで28.3フランよりはよっぽどお得であったことよ。 (今夜は飲み物だけ……。ちぇっ。)


          つづく


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