2001年夫婦世界旅行のつづきです。7月20日。パリ2日目。 “マッチョマン・ホテル” の 「丸見えトイレ」 に辟易して、別の宿を探しに出ましたが、いい安宿はなかなか見つかりません。喉も渇きました。そう言えば、今朝からまだ何も口にしていないのです。





part141 ハッサン・ブラッスリー


「フランスではみんなそうなんです」?








さて、ポンピドゥセンターまで行くのはよいが、しかし、その前に腹ごしらえをしようじゃないの。コーヒーも飲まずに宿探しなどしているから、いい宿が見つからないのだ。コーヒーじゃ。コーヒーじゃ。コーヒー飲まいでいられよか。コーヒーを今日はまだ一滴も飲んでいないことを思い出したら、いても立ってもいられない。





と、路地に小さなブラッスリーを見つけた。籐の椅子と小さなテーブルが2脚、日を受けて気持ちよさそうに店の外壁に沿ってチョコンと並んでいた。店の入り口にはメニューが張り出してある。が、値段の横にさらに括弧付きの値段が表示されていて、よくわからない。まぁ、大体相場の値段ではあるようだが。





店の中を覗くと、6畳ほどの狭い店内。テーブルが3つとカウンターしかない小さな店だ。カウンターの前には椅子などない。カウンターの後ろにはカクテルなどを作るグラスが並んでいる。カフェというより、飲み屋に近い感じだ。





時刻は昼近いというのに、客が一人も入っていない。薄暗いカウンターの端に店主らしき男が一人、暇そうに立っていた。黒々とした口ひげを蓄えた固太りの男で、なんとなくトルコ人っぽい感じ。 “ムッシュ・ハッサン” って感じだ。





ううむ。コーヒーは飲みたいが、この時間帯に客が一人も入っていない店というのはいかがなものか……。今一度店の外のメニューを睨みながら迷っていると、ハッサンが出てきて、声を掛けてきた。





「店の外でも中でも、テーブルに座って飲むと2フラン (35円) 高くなり、カウンターで立ったまま飲めば、その分安く飲める。」 と言う。





そんなことは初めて聞いた。なんじゃ、そりゃ? と目をぱちくりさせていると、 「客がカウンターのところに立っていてくれれば、コーヒーを運ばなくて済むだろ? 手間要らずだ。しかし、客がテーブルについたら、そこまでコーヒーを運ばなくっちゃならない。そうだろ? だから、その分、高くなるんだよ。」 とさらに教えてくれる。





なるほど……とは思うが、やっぱり 「なんじゃ、そりゃ! 」 だ。カウンターからテーブルまで、ほんの1歩か2歩の距離だぞ。その歩数に2フラン取るというのか? 





「あなたの言うことはわかったけれど、しかしねぇ、これっぽっちの距離を運ぶのに、2フラン取るの? 」 と、店の中を覗きつつ、カウンターとテーブルの間を指で測って見せると、ハッサンは憮然として、 「フランスでは皆そうだ。そういうものなんだよ。 “運ぶ” ということは、 “コーヒーを入れる” ということとは “別のサービス” なんだ。」 と言う。ほぇ~。そういう理屈ですか。なんちゅー理屈ですか。





「じゃ、私がカウンターでコーヒーを受け取って、それを自分でテーブルまで運んで、テーブルに座って飲み、飲み終わったらカップをカウンターに返したら、いくら? 」 と聞いてみたら、それもプラス2フランだと言う。





「客がテーブルを使った後は、テーブルを拭くだろう? 」 とテーブルを拭く振りをする。 「じゃ、飲み終わった後、テーブルを我々が拭いて帰ることにしたら~? 」 ……と聞き返すのは、さすがにやめておいた。





「よくわかった。ありがとう。」 と礼を言うと、ハッサンは 「わかってくれりゃいいさ。」 という感じで、再び薄暗い店の中へ戻っていった。





そういえば、ブラッスリーなどでは、カウンターで立って飲んでいる人が多い。なんで落ち着いて席に座って飲まないのかなぁ……と思っていたのだ。 





(食事をするときはちゃんと座ることを躾けられてきた我々は、立ったまま飲み食いすることに、特別お行儀の悪さを感じるのであった。





幼い頃、父と一緒に散歩をした際は、通りがかった牛乳屋さんで 「おねだり」 すれば、ラムネもしくは牛乳を買って飲ませてもらえた。 ――父への 「おねだり」 が白い牛乳一本。なんともつつましい時代ではあったなぁ。―― しかし、どんなに暑い夏の日でも、その牛乳屋さんに 「座って飲むためのベンチ」 がなければ、牛乳は飲ませてもらえなかった。 





「立ち飲み」 は行儀が悪い! というのが父の持論であった。いーじゃんっ! 立って飲んだって! と幼心に思ったものだが、そして今でも、立って飲んだっていーじゃん? とは思うのだが、三つ子の魂なんとやら、どうも立って飲んでいる人を見ると落ち着かないのであった。)





思いがけずハッサンが詳しく説明してくれて、フランス人の 「立ち飲み」 の原因も解明できた。お礼の気持ちも兼ねて、その店に入ってみることにした。外のテーブルは気持ちよさそうだが、暑そうだ。狭苦しいが店の中のテーブルについてみよう。2フランプラスもご愛嬌だ。運んでもらおうじゃないの。ほんの1歩でも。





意を決し、値段をチェックして、狭いながらも客一人いないガランとした店に再び入る。





と、なんだ、先客がいたじゃないか。一番奥のテーブルに男が一人、ビールを飲んでいた。外が明るい分、店の中が薄暗くて、よく見えなかったのだね。それにしても、店の薄暗さに同化して、なんだか薄暗い客である。鬱々たる雰囲気を一人発散させている。失恋酒か? 失業酒か?





とにかく、他にも客がいるなら、なおよろしい。ビールもテーブルで飲む場合はプラス2フランなのだろうか? などと思いつつ、我々はコーヒーを注文しながら入り口近くの一番明るいテーブルにつく。





するとハッサン、客が増えたのだから喜ぶかと思いきや、 「本当にわかったのか? テーブルに着くと2フラン余計にかかるんだぞ? 」 とまた説明を繰り返す。





くどいなぁ。何だよ? 我々がテーブルに着いちゃ悪いのか? 本当は我々を店に入れたくなくて、あんな説明をしにきたのか? ここは黄色人種に飲ますコーヒーがないとでも言いたいのか? さっきは我々を追い払おうとしていたのか? 





「いーからっ! とにかくミルク入りコーヒー、2人前ねっ! ドゥ・カフェ・クレムよ。かふぇ・くへんむっ! すぃるぶっぷれっ! 」





「 ……わかっているのなら、いいけどさ。」 ってなことをぼやきながら、ハッサンはカウンターの中に入ってコーヒーを入れ始めた。





何なんだ、一体? ハッサンの腑に落ちない対応に少々苛立ったものの、カウンターの奥からコーヒーのいい香りがしてきた。よしよし。





ハッサンがコーヒーをカップに注ぎ、カウンターにかちゃりと置く。 (おっ。いよいよだ。) それからおもむろにカウンターの外に出てきて、ソーサーに乗ったコーヒーカップを2つ両手で持ち、 (おっ。運ぶぞ、運ぶぞ。)  くるりとこちらを向いて、1歩、2歩、おっと、さらに3歩。おまけに4歩だ。





1.5mもなかろうカウンターとテーブルの間を、4歩も使って運んだぞ。1歩0.5フランだね。ご苦労。





無事コーヒーがテーブルの上に置かれたので、 「めるしっ」 と礼を言ってみると、ハッサンは、ようやくにこっと相好を崩した。もしかしたら、こちらの人間は物を運ぶことが苦手なんじゃないか? カフェのギャルソンはさておき、少なくとも、このハッサンは運ぶのが大儀そうだ。


 


なにはともあれ、納得ずくのプラス2フランのコーヒー。ようやく飲めたコーヒーに、私はほぅぅっと一息つけたのであった。コーヒーを飲むひと時というものは、実に貴重だ。心を熱い香りの中に溶け込ませ、しばし陶然とすれば、気持ちもリセットできるというものだ。





そんな風に我々がコーヒーを楽しんでいると、先客の “薄暗い男” が、ふらりと席を立った。顔つきが暗いだけで、別段酔っているようには見えない。





さて、勘定の段になっていきなり、ハッサンと “薄暗い男” の言い争いが始まった。 「言った」 「言わない」 、 「勘定が違う」 「違わない」 とどちらも引かない。ありゃりゃりゃりゃ~? 客と揉める店は嫌だなぁ。





結局客の方が、ハッサンの主張する額をしぶしぶ支払い、ふらふらと店を出て行った。……嫌な予感がしてきたぞ。





やや怪しい雲行きに夫と顔を見合わせていると、今度は若い白人カップルがやってきた。そして店に入ってくるなり、ハッサンに何やら文句を言い始めた。どうやら、最初から文句をつけにきたようだ。





ハッサンは不機嫌そうに少し言い返しただけ。後は聞く耳持たぬという風に済ましている。すると、そのカップルは何やら捨てゼリフを残して去って行った。





ほんの数分の出来事であったが、……一体この店はどういう店なの? 白人カップルはボッタクラれたのであろうか。我々もボラれるのだろうか。丁寧に説明を受けたが、実は 「2フランだ? 俺ぁ、そんなことは言ってない。」 「俺はプラス20フランだと言ったんだっ。」 とかなんとか2本指立ててゴネルつもりか?





もう、コーヒーの香りも何もあったもんじゃない。今となっては、この 「客がみんな怒って出ていくハッサン・ブラッスリー」 をいかに平安に去るか、が大課題となった。





不安なまま会計に臨むと、何のことはない。予定通りの勘定だった。 (私はメニューで値段を確認するたびに、忘れないうちにそれをメモしていた。) 予定通り、「運び料」 プラス2フランだ。 





他の客は何をあんなに怒っていたのだろうか。みんなプラス2フラン取られたが、フランスでテーブルについても、 「運び料」 など本当は取られないものだということが後でわかって怒るのか? どうなのだろう? もっともらしく 「フランスでは皆そうだ。そういうものなんだよ。」 と言い放ったハッサンの説明は大嘘だったのかもしれない?





フランスでは、普通カフェなどでチップを置くようにとガイドブックなどには説明されているが、 「運び料」 も払ったので、チップ無しで店を後にしたのであった。そもそも 「運び料」 なんてものは、 「チップ」 の習慣を持たない客から、強制的にチップを取るための口実だったのかもしれない。





やれやれ。パリはわけがわからん。騙されたのだか、騙されなかったのだか、よくわからないまま、メトロに乗るべく北駅に向う。





北駅周辺は特に黒人の姿が目立つ。 「パリに黒人が異様に多い」 ことも、ここが 「憧れのパリ」 だという実感がまだ湧かない一因かもしれない。とにかく黒人ばかりなのだ。白人の数より多いのではなかろうか。しかしこの情景こそが、パリ! なのかもしれない。





昨日は昨日でラリッた男や警官に取り囲まれた男を見た北駅 (part138参照) 。自然とやや緊張気味に、メトロへと降りていったのであった。


            つづく


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