世界一、大好きな、おじいさんへ。 | 元U-20ホンジュラス代表GKコーチ・山野陽嗣の「世界一危険な国での挑戦」

世界一、大好きな、おじいさんへ。


「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -おじいさんと。1




 小さな頃からいつも優しく、温かく、時には厳しく…深い愛情をもって、大切に大切に僕の事を育ててくれた、おじいさん…。

 
 僕はそんなおじいさんの事が、世界一、大好きでした。


 幼少期の多くの時間を、僕はおじいさんと共に過ごしました。よく、おんぶして、いろんな所に連れて行ってくれました。完全に僕は、「おじいちゃん子」として育ちました。


 




 小学校に入学してから、僕は同級生にいじめられていました。いつもいじめられて悔し涙を浮かべながら家に帰ると、おじいさんは「誰がいじめるんなら!おじいさんが言っちゃろう!」と我が事のように激怒し、何度か登校中のいじめっ子に会って「ようじ君をいじめてやらんでくれの」と頼んでくれました。それでも、いじめが止まないと「今度いじめられたら、こうやってやっちゃれえ!」と手取り足取り、喧嘩に勝つ方法を伝授してくれました。


 おじいさんの熱い教えに勇気をもらった僕は、小学1年生の頃のある日、いじめっ子集団のボスに喧嘩を挑みました。結果は、勝利。それ以降、僕は小学校でいじめられる事がなくなりました。この「勝利」がなければ、僕は小学6年間ずっといじめられていた事でしょう…。おじいさんのくれた「勇気」が、いじめられっ子だった僕の人生を大きく変えてくれたのです。そしてこの経験から僕は「人生は自分の力で切り開かねばならない」という事を学びました。


「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -おじいさんと。2
 



 中学・高校時代の6年間。僕は親元を離れて寮生活をしていました。週末の休みになると、寮生の多くは家族の車で寮まで迎えに来てもらい、故郷へと帰省します。しかし僕は両親が仕事で忙しく、また体調も優れなかったため、ほとんど迎えに来てもらえませんでした。よって週末はいつも1人バスで帰省したり、バスに乗れない時は、友達の家族の車で家まで乗せて帰ってもらっていました。


 「エエのう…友達は家族に迎えてに来てもらえて…。片や俺は…」

 
 友達の親に「家まで乗せて帰って下さい」と頼むのは子供ながらに毎回、気まずく、肩身が狭い思いをしていました。そして家族と楽しそうに…幸せそうに交流しながら帰る友達の姿を見る度に、羨ましくて仕方ありませんでした。それとは対照的に、いつも1人の自分が空しく、寂しい気持ちになりました。


 ある日、僕は我慢できなくなり、寮からおじいさんに電話して自分の気持ちを伝えました。すると、おじいさんは…


 「分かった。そこで待っときんさいね。おじいさんが迎えに行ってあげるけえ」


 …と言い、故郷から僕の居る寮まで、遥々、車を運転して、迎えに来てくれる事になったのです。


 しかし…。迎えの車はいつまで経ってもやって来ません。当時のおじいさんはすでに高齢。車を運転するのも容易ではありませんでした。待てど待てど姿を現さないおじいさんに、僕は不安な気持ちになりました。「ひょっとしたら、どこかで事故したんじゃないか…?おじいさんの身に何かあったらどうしよう…。迎えに来て欲しいなんて、言うんじゃなかった…」 最悪の事態も頭をよぎりました。







 
 そんな中…。待つ事、3時間…。








 不安と後悔の念にかられる僕の前に、おじいさんの車がついに姿を現しました。普通なら車で45分の道のりを、おじいさんは何度も何度も道に迷いながら、それでもその度に人に聞きながら…僕のために、3時間もかけて迎えに来てくれたのです。


 「ほいじゃあ家に帰ろうか、ようじ君」


 まるで何事もなかったかのように、いつもの優しい顔で、僕に温かく声をかけてくれました。おじいさんのその優しさと温かさが、どれほど嬉しかった事か…。おじいさんが無事だった事の安堵感と相まり、僕は感極まって涙が出そうになりました。



 「ありがとう、おじいさん…」



「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -おじいさんと。4





 大学時代には、広島を離れて埼玉で1人暮らしする自分に、弱った体で精魂込めて作った野菜をたくさん箱に入れて送ってくれました。その野菜の1つ1つにおじいさんの愛情を感じ、僕は目に涙を浮かべながら食べました。おじいさんのおかげで厳しい練習も乗り越える事ができました。






 



 大学卒業後から、僕の8年間にも及ぶ海外生活が始まりました。


 それと同時に、体の弱ったおじいさんの入院生活も始まりました。


 






 地球上のどこに居ても、おじいさんの事はいつも心配でした。それでもおじいさんは、中国から、アメリカから、ホンジュラスから、パナマから、南アフリカから…世界のあらゆる国から僕が帰国する度に、元気な姿を見せてくれました。「ずっと元気でね、おじいさん」と言うと、「ようじ君こそ、元気での」と、弱った自分よりも、僕の事をいつも心配してくれました。「俺はまだ若いけえ大丈夫よ」と僕が言うと、「はははははは」と満面の笑みを浮かべてくれました。そんなおじいさんの満面の笑みを見るのが、僕のかけがえのない喜びでした。


 帰国の度におじいさんのお見舞いに行くのは、僕の恒例行事となりました。


 2005年にホンジュラスの地で、生まれて初めてプロサッカーチームと契約締結し、「人生最大の夢」を実現 。その事をおじいさんは喜んでくれました。所属チームであるCDレンカの集合写真ポスターはおじいさんの病室に貼られ、お見舞いの度にポスターに映る僕を指さし「いつも見とるんじゃけえ」と笑みを浮かべてくれました









「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2008年11月。レンカ写真を指さすおじいさん。







 2006年10月。ホンジュラスの地から、地元・広島のRCCラジオ番組に出演 する事となりました。その番組の放送日が奇跡的にもおじいさんの87歳の誕生日だったので、僕は番組の最後の一言で、入院するおじいさんに感謝の気持ちを込めてメッセージを贈りました


 おじいさんはこのラジオ放送を病室で聴き、喜んでくれていたそうです。


 「地球の裏側」…時差15時間の国・ホンジュラスから、おじいさんに僅かながらの恩返しが実現した瞬間でした。




 おじいさんが喜んでくれる事…。おじいさんが笑顔になってくれる事…。それが僕の何よりの幸せでした。「おじいさんを、もっともっと喜ばせたい。もっともっと笑顔にさせたい」…これが僕の大きなモチベーションとなっていました。→<負けられない理由





※2006年7月。ホンジュラスから1年半ぶりに日本に帰国後、当時86歳のおじいさんと。ホンジュラスで生まれて初めてプロサッカーチームと契約締結した時 と同じTシャツを着て。

「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2006年7月。おじいさんと!1



「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2006年7月。おじいさんと!2






※2007年4月。パナマから10ヶ月ぶりに日本に帰国後、87歳のおじいさんと。10ヶ月前の再会時(上の写真)とあえて同じTシャツを着て…。→<今の俺は1人じゃない!…家族も友達も大自然も…全てを「力」にして、成功に突き進む!

「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2007年4月。おじいさんと。






※2008年。南アフリカから1年ぶりに日本に帰国後、88歳のおじいさんと。 この頃から脚が弱り、自力では歩行ができなくなりました。

「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2008年6月。広島にて、おじいさんと!2



「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2008年6月。広島にて、おじいさんと!1






※昨年(2010年)12月。シンガポールから帰国後、91歳になったおじいさんと1年ぶりの再会。これが一番、最新の写真です。

「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2010年12月。おじいさんと1年ぶり再会!



「日本→中国→アメリカ→イングランド→ホンジュラス→ジャマイカ→パナマ→オーストリア→南アフリカ→日本→シンガポール→?」 -2010年12月29日(水)おじいさんのお見舞い!




 上の写真を撮った後、僕はアルビSで働くために、再びシンガポールへと旅立ちました。


 おじいさんは別れ際、いつものように、エレベーターに乗った僕の姿が見えなくなるまで…弱った体で力を振り絞って、最後の最後まで手を振ってくれました…。


 



 そして、現在に至ります。もちろんこれ以降は帰国してないので、半年間、おじいさんとは会っていません。「世界一、大好きな、おじいさん」には、いつまでも、いつまでも、いつまでも元気でいて欲しい…。また帰国した時には、おじいさんの笑顔が見たい…。













 しかしこれが、おじいさんと撮った「最後の写真」となってしまいました。











 およそ1ヶ月前…。シンガポールにやってきた父から、思いもよらない報告を受けます。






 「おじいさんが、急死した」





 
 ……………………。時が止まりました。あまりに突然の出来事で何が何だか分からない僕に、追討ちをかけるかのように父の言葉は続きました。






 「実は2月に、すでに亡くなっていた」






 そう言って、おじいさんの遺影を手渡されました。3ヶ月前に、おじいさんが亡くなっていただなんて…。この3ヶ月間、家族で「僕だけ」がおじいさんの死を知らなかったのです。当然、葬儀が行われていた事も…何もかも一切、知りませんでした。信じられない…。



 

 おじいさんと昨年、シンガポールから帰国後に再会した際、未だかつてないほど弱っていたので「覚悟」はしていました。僕の事も誰だか、もはや認識できなくなっていました。それでも僕は、おじいさんが10回に1回だけでも僕の事を「ようじ君」と認識できたのが嬉しかったし、「例え認識できなくとも、とにかく、おじいさんが喜び、笑顔になってくれるなら、それで良い。おじいさんにそうなってもらえるよう、これからも全力を尽くそう」という強い気持ちで、毎日を戦っていたのです。「俺がおじいさんに喜びと笑顔を与えるんじゃ」という強い気持ちで…。


 しかし、そう思いながらやってきたこの「3ヶ月間」…。すでに、おじいさんは、この世にいなかった…。その事を、家族で僕だけが知らなかった…。



 


 僕の中には「家族より大切なものなど存在しない」という価値観があり、「家族に何かあった場合、世界のどこに居ても必ず帰国する。(例え職場で反対されても)仕事を辞めてでも帰国する」と常々、両親には話していました。だからこそ、逆に両親としては、「おじいさんの死」を僕に告げる事ができなかったのかもしれません。






 大学時代。15年間、飼い続けた愛犬が亡くなった時、僕はその日の内に埼玉から広島に帰り、自らの手で愛犬を埋葬しました。


 おばあさんが危篤状態に陥った時、僕はおばあさんのベッドの横に寝て、「最後の瞬間」を見届けました。


 「おじいさんの葬儀には、何があっても必ず出席する」…そう心に決めていました。しかし、僕の願いは叶いませんでした。






 楽しみにしていた家族の来星。僕はただ「家族とシンガポールで楽しく幸せな時間を過ごしたい」という気持ちだけだったのですが、久々に再会した父から思いもよらない報告をされ、大きなショックを受けました。両親としては「3ヶ月前に告げられなかったおじいさんの死を、シンガポールに行って報告せねばならない」という意味が今回の来星にはあったそうです。全く何も知らず、家族の来星を楽しみにしていた自分は一体…。






 家族が来星する前々日。「おじいさんが3ヶ月前に亡くなっていた」と告げられる5日前…。おじいさんの死をまだ知らなかった当時の自分は、このようなツイートをしています。


 <
 おじいさんと語りながら一緒に寝てる夢を見た。凄く良い夢じゃった。


 現在、91歳のおじいさん。小さい頃から本当に可愛がってもらった。いつまでも元気でいて欲しい… >






 今の自分はシンガポールに住んでいて、おじいさんが生きてても、そうでなくとも…会う事ができません。葬儀にも出席してないので、正直、おじいさんの死をまだ現実のものとして受け入れられない自分もいます。家族とスカイプや国際電話をする度に、「おじいさん元気?」と未だに聞いてしまいそうになる…。しかしおじいさんは、もうこの世に存在しないのです。帰国の際の「恒例行事」だったおじいさんのお見舞いも、もうする事はできない…。その事を想像すると、心にポッカリ穴が空いたような心境になり、悲しくなります。父から手渡された遺影はすぐに封筒に入れ、まだ一度も開けて見ていません。いや、見る事ができないのです。


 それくらいおじいさんが亡くなった事、おじいさんの死を3ヶ月間も知らず、葬儀にすら出席できなかった事は、自分にとって大きなショックでした。






 小さな頃からお世話になったおじいさんに、恩返しらしい恩返しが、何もできませんでした。本当はもっともっと喜ばせ、笑顔にさせたかったのに…。「天国のおじいさんに届くように」とは言っても、天国でおじいさんが喜んでいても、笑っていても、僕には見る事ができないし、そもそも本当に「天国」が存在するのかどうかも分かりません。僕は「現実の世界」で生きているおじいさんを、もっともっと喜ばせ、笑顔にさせたかったのです。






 この1ヶ月間は精神的に難しく、なかなかブログの更新もできませんでした。「おじいさんの死をブログに書いても良いのか?天国のおじいさんはどう思うじゃろうか?」……葛藤もありました。しかし、葬儀さえも自分が知らぬ間に行われ出席できなかった今、おじいさんが亡くなったのにも関わらず、まるで何事もなかったかのように普通に時間だけが過ぎていくのはどうしても嫌でした。葬儀の代わりにはならないけど…せめてブログに、おじいさんに対する感謝の気持ちを書きたい…。ところが「書こう」と決心してからも、筆は思うように進みませんでした。おじいさんに対する気持ちが強過ぎるため、書くに書けないのです。…このブログを完成させるのに、1ヶ月の時間を要しました。






 正直、書きたい事は、まだまだまだまだまだ…たくさんあります。それくらい、おじいさんは僕にとって、大きな存在だったのです…。












 世界一、大好きな、おじいさんへ。



 
小さな頃からいつも優しく、温かく、時には厳しく…深い愛情をもって、大切に大切に僕の事を育ててくれて、ありがとう。


 そして91歳まで生き抜き、僕が帰国する度に、笑顔を見せてくれて、ありがとう。


 たくさんお世話になったのに、ほとんど恩返しができず、申し訳ない気持ちで一杯…。天国が存在するのかは分からないけど、恩返しの続きはこれからもしていくので、ずっと見守っていて欲しい。



 感謝の気持ちを込めて。


 ありがとう、おじいさん…。







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