あたしは、何か言うことも、動くことも出来なかった。
デートだってひとりで浮かれていたことが、馬鹿みたいに思えて。
あんまりにも哀しくなってきて、目の縁から涙が滲み出てくる。
だけど、この男の前で泣くのも嫌で、あたしは俯いて歯を食いしばった。
「ふぅん」
馬鹿にするような声が聞こえてきて、あたしはそこで顔を上げた。
「何っ?」
「オマエ、あーゆーのが好みなんだ?」
「だからなんなの!? ……って、何であんなこと言ったのよ! ……もうっ、もう、最低っ!」
「怒鳴るなよ。近所に丸聞こえだぞ?」
ニヤッと、意地悪く蜂谷は笑った。
ちくしょう、この男……。
あたしはクッっと唇を噛み、手の中の手紙を握り潰し、歩き出した。
「……じゃあね」
もうとっとと帰ろうと、自分の家の門を掴む。
――と、反対の手首を取られた。ぐいっと引っ張られて、強引に後ろを向かせられる。
その途端、覆われた影。
何が起こったのか、すぐになんて判断出来なかった。
ほんの一瞬だけ触れた唇と唇。
けれど確実に触れた唇と唇。
痴漢にあったときに急に声が出ないっていう話は本当だった。あたしは声を上げられない。ただ目の前の綺麗な顔が、ゆっくりと離れていくのが目に映るだけで。
「言うなよ」
息がかかるほどまだ近くにある顔が言った。焦げ茶色の瞳が射るようにあたしの目の奥を見ながら。
動けないままのあたしを置いて、彼は踵を返した。
そのまま遠退く後姿を見つめ、あたしはずるずると地面にへたり込んだ。
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