31.ゲームセット -2 | 隣の彼

隣の彼

あたしの隣の、あのひと。……高校生の恋愛模様。


海斗も黙ったままで。
重たすぎるほど静かな空気に、彼の足音だけが響いて上がった。
ひとつひとつの音が、ぎしぎしと胸を締め付ける。

階段まで向かう距離は僅かなもので、菅野くんの姿はあっという間に見えなくなって。
足音も、すぐに遠くに消えてなくなった。

お互いの息遣いさえ聞こえそうな静寂が戻った。
あたし達はどちらともなく、間近の顔を見つめ合った。

海斗の瞳に照明の光が濡れたように揺れていて、その中にあたしも一緒になって映し出されている。
あまりにも身体中に響く心臓が、どうにもならない気持ちまで押し上げて、一緒に波打つように動かしてきて息苦しい。


「血が、出てる……」


あたしは、自分の親指でそっと海斗の唇の端を拭った。

ゆっくりとなぞると、海斗の左手が、触れているあたしの掌を窘めるようにぐっと掴んだ。

次に何が起こったのか、すぐには分からなかった。
弾けたように頭が真っ白になる。

頭も身体の芯も、ビリビリと電気が走って麻痺したようで。
けれどそこに感じる柔らかい感触と熱さが、あたしと海斗の唇が重なっていることを教えている。


「ん……っ……」


くぐもった声が漏れて、あたしは瞼を閉じた。

離れたか離れないかのギリギリのラインで唇の角度が変えられて、もう一度強引にそこに落ちてくる。

耳の後ろからうなじをなぞって海斗の指が髪の中に差し込まれ、頭を支える手にぐっと力が入り、更に引き寄せられた。


何で……?


そう思っても、止めることなんて出来ない。

身体の奥から疼くように込み上げて、大きく膨らんでいく何か。

その何かに駆り立てられるように、あたしも唇を合わせた。

夢中で、海斗の熱をまさぐる。
海斗も同じように、あたしを。

それは、あたしの気持ちに応えるようにとしか感じられないくらい、激しく、熱くて。


海斗が、好き。
好き。
――好き。


底がないくらい、深く愛しさが溢れ出る。

もう、ただ、その気持ちでいっぱいだった。


繋がれていた唇がゆっくりと離れていって。
離れていく唇と共に、瞼をそっと開いていった。

瞼を開き始めた時から既にそこで視線は絡み合っていて。

余韻に浸るような少しの沈黙が流れる。


「……ゲームセット、だ」


海斗が切なげな掠れた声で、呟くようにそう言った。


――ゲームセット。

それは、どういう意味で言ってるの?
今のキスは、何?

もう、苦しい。
いっぱいに、膨らみすぎて。
好きすぎて。


「ワケ分かんない……っ」

「分かんない、って、なんだよ?
言わなくても分かるだろ?」

「分かんないよ……っ」

「菜奈が、好きだっつーの!」


怒ったような、半分投げやりなような、ぶっきらぼうな、そんな声が響いて。
海斗は言ったあと、言葉を紡いだ口元を手で覆い、視線を床へと落とした。


好きって――。

それって、本気で言ってる?


「だって、未知花さんは?
さっき海斗のこと、彼だって――……。
海斗だって、未知花さんのことが忘れられないんじゃないの?」


海斗は睨むようにあたしを見て、口元の手を下ろした。


「あれはアイツが勝手にそう言っただけだよ。
オーナーの前でそんなこと言ったアイツの顔、いくらオレだって潰すわけにいかないだろ?
そこまでデリカシーないように見えるかよ?」

「だ、だって! 普通そう思うよ!
クラス会の日だって、何話したかとか、どうなったかとか、戻って来てからだって何も言ってくれなかったし! あたしからだって、そんなの訊けなかったし!
あの日、まだゲームの勝負、ついてないって言ったの、海斗じゃん!」

「あれはー……あの時、お前が恋愛感情ないって言ったから……。
それに平気で背中押して会って来てとか言うし。
気のある素振りしてくるクセに、ワケ分かんねー……。
一緒にいて、もう少し時間かけて振り向かせればいいや、って思ったんだよ」

「平気って、そんなわけないじゃん!
どれだけあたしが――!」


思わず大きな声が出ると、海斗は「分かんねぇよ」と怪訝な顔で返す。


「未知花のコト、言い出したのオマエじゃん」

「それは……海斗も未知花さんも、ずっとお互いに好きだったでしょ。
だから、そのまま黙っておくことも出来なかったんだもん……。
それに、最初に言い出したのは、ただ気になってたから。
未知花さんのこと、訊かずにはいられなかったんだもん」

「だからって……ちゃんと言わなきゃ、分かるわけねーだろ」

「だって――」


弁明しようとするあたしを、いいわけするなとでも言わんばかりに海斗は「オレはさ、」と遮った。


「この間だって、ずっと一緒にいれればいいな、って言ったのに。
オマエ、聞いてねーし」


ふう、と、海斗は息を漏らした。


この間? 何?
聞いてない、って……。


「それって……。
もしかして、レストランのテラスで言ったこと?」

「そーだよ」


そんな大事な言葉、言ってくれてたの?


「だ、だって……風と波の音が凄くて聞こえなかったんだもん……」


しゅんと頭を下げる。

ううん、こんなの本当にいいわけ。
海斗はちゃんと、気持ちが見える言葉を言ってくれてたのに……。


「……ごめんね」


そろそろと目を上げながら言うと、海斗は「オレも」と目を伏せた。


「クラス会のあの日、確かに未知花に会ってきちんと話をして、自分の気持ちをハッキリさせるつもりだった。
自分の中の燻ったような想いが何なのか、確かめたかった」

「……う、ん」

「だけど、未知花の顔を見た瞬間、分かったんだよ」

「分かった……?」

「今はもう、未知花のことは昔好きだった人だって、過去形の気持ちになってることに。
あれだけ会いたいと思ってたのに、会ったら何も感じなかった。
その代わりに、菜奈の顔が浮かんだ。
気が付いた。菜奈が好きだって。大事だって。ようやく」


海斗は目を細めて、ほんの少しだけ口の端を上げて見せた。

きゅううっと、胸が締め付けられる。
嬉しいとかそれ以前の、もっともっと濃度の濃いようなとろりとした甘い気持ち。

あたしは言葉を出さずに、小さく頷いた。


「あの日、昔の仲間で集まったおかげで皆から解放されなくて、未知花とは結局、二人でちゃんとした話なんて出来なかったんだ。
でも、オレの気持ちはハッキリしたから、特別にそれ以上のことを話す必要もないと思った。
ただ、アイツの気持ちは何となく気が付いてた。オレに会いに来た、ってそう言ってたから。
それで帰り際、二人きりで会って、きちんと話がしたいって言われた。
今日、パーティーのあとに、って」

「今日?」

「ああ。さっき、お前と菅野が店を出て行ったあとに、ちゃんと話をしたよ。
アイツは、オレを彼だって紹介したのはそのつもりだったからって、そう言ってた。
ずっと好きだって、忘れられなかったって。
オレも、同じ気持ちでいてくれればいいって――もし駄目でも、少しでも恋人同士の気分を味わいたかったから、って。
昔、お互いに好きだったのに、誰かの前で――オレの前でさえ、そんな風に言えなかったから……」

「………」


未知花さんがそう言ったことを恨めしいとは思えなかった。
彼女の気持ちも理解出来たから。

心苦しくなってコンクリートに目を落とすと、海斗が「だけど」と、言葉を繋いだ。


「オレはもう昔のオレじゃない。
未知花のことは確かにずっと好きだったけど、今は過去形だって。
今、オレが好きなのは菜奈だって、ハッキリ言った」


海斗は、あたしをまっすぐに見た。
強い意志を持った瞳で。

途端に、身体中にどうにもならないほどの嬉しさが湧き上がる。


「う、ん」


何だか……何て言っていいか分かんない。
『うん』しか言葉が出てこない。
多分顔だって、赤い。


ぎゅっと胸を締め付ける甘い痛みに、ただ海斗の顔を見つめたままでいると、その顔は急に眉を寄せて歪んだ。


「つか。おまえこそ何なの?
菅野の彼女、って言われてただろーが」

「えっ……」

「どーゆーこと?
オマエだって、否定しなかったじゃねーか」

「あれは……菅野くんに頼まれて……。
お父さんが、菅野くんと未知花さんをくっつけたがってるから、彼女の振りしてって、お願い、って……」


口ごもりながら答えると、海斗は、はぁ? と、呆れた顔をする。


「引き受けるかよ、フツー。
マジで、凄ぇショックだった。
オマエにとってオレは本当にゲームで、菅野が本命なのかよ、って」

「ごめんなさい……」

「いいよ、もう……。
オレもちゃんと言わなかったのが悪いし。
あの場で否定出来なかったのは同じだし。
菅野にはマジで感謝しなきゃなんねーし……」


海斗は、ひとつ息を落としてから立ち上がった。
そして、あたしに向かって手を差し伸べてくる。
大きな、海斗の掌。

その手を取ると、ぐいと引っ張られ、あたしは力を入れることなく簡単に立ち上がらせられた。


「電話……海斗を呼んだって、菅野くん、何て言ってたの?」

「凄ぇ怒りのこもった声で、菜奈の気持ちをよく考えてみろ、って」

「………」

「湘南平にいるから、菜奈の気持ちを無駄にするな、来ないなら本当に俺が貰う、って」

「……うん」


菅野くん……。
本当に本当に、何て言っていいのか分かんないよ。
ありがとう、って、言い尽くせないくらい。


ちくん、と痛む胸をまるで緩和するように、海斗の温かい掌があたしの手をぎゅっと握った。






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