菅野、くん……?
「もう、無理。止まんないから」
「……え」
「好きになるな、って、いう方が無理」
突然のことに驚いて、どうしたらいいのかなんて分からなかった。
ただなされるがまま、菅野くんの腕の中にいる。
きつく締め付けてくる腕と触れている体温が、彼を感じさせる。
顔を上げると、切なく揺れる瞳が、あたしの目に映し出された。
菅野くんは、苦しげに顔を歪ませ、指の腹でそっとあたしの涙を拭った。
そして、頬を柔らかく撫でるように触れてくる。
なのに、あたしはその手が振り払えない。
「鍵も外したんだから、もう海斗のことは忘れてくれ。
本気だから。菜奈ちゃんが好きだ」
「菅野くん……」
「俺じゃ、駄目?
海斗を忘れるために利用してもいい。
だから――……」
頬から掌が離れると、そのまま頭へと回され、胸に顔を押し付けられた。
そこから、ドクドクと早鐘を打つ心臓の音が響いて伝わってくる。
彼の気持ちも、一緒に。
――菅野くん……。
あたしは馬鹿だ。本当に。
何でここまで鈍感なんだろう。
瑞穂もミカも、鈍いって言ってたのに。
『利用してもいい』なんて――。
既に利用してるよ、こんなの、あたし。
優しい菅野くん。
海斗とのことも『協力する』って言ってくれた。
今もあたしのために、ここまで付き合ってくれて、鍵まで一緒に探してくれた。
どんな気持ちにさせてた?
苦しませたよね、きっと。
何で、あたしはこんなに馬鹿なの……。
「ごめん……なさ……」
苦しくて、なかなか声が出ない。
振り絞るように言ったけれど、途中で掠れた。
海斗への気持ちも。
菅野くんへの罪悪感もふがいなさも。
一緒くたに混ざり合って、胸が潰れそうに痛い。
「俺じゃ、駄目なの……?」
切れそうな声で、菅野くんが言った。
あたしは、かぶりを振る。
「好きな気持ちは、簡単に変えられないよ……。
いい加減な気持ちで、菅野くんとは付き合えない」
「それでもいい、って、言ってるのに?」
「そんな失礼なこと、菅野くんにはしたくない」
菅野くんは口をつぐみ、あたしを見つめる。
あたしも黙ったまま、彼から目を逸らさなかった。
誰もいないテレビ塔のこの階に、張り詰めた静けさが戻った。
緩まった風に揺らされた木々だけが、時折葉の音を立て、二人の間に流れる。
その静かな音の中に、何かの音が混ざったような気がした。
何か高く響く音。
それは気のせいではなかった。
金属を蹴るような、そんな音がどんどんと近づいてくる。
「信じらんねぇ……」
急に菅野くんが、クッと笑う。
「王子様の登場だ」
何?
と、思うと、身体に回されていた腕の力がするっと緩まった。
「タイミング、良過ぎだろ? 海斗」
――えっ!?
菅野くんの口から出た名前に驚いて、勢いよく振り返る。
ドキンと、大きく心臓が鳴った。
たった今入り口に現れたその人は、紛れもなく海斗で――。
息を切らせ、腕で汗を拭う。
その仕草のあと、あたしをまっすぐに見据えてくる。
熱い視線。
射抜くような。逸らすことの出来ない強い瞳で。
「海斗……何で?」
「オレが訊きてーよ……」
訊きてーよ、って――。
「何、それ……」
わけが分からないまま口から漏れた言葉を全部言い切る前に、海斗があたしの腕を掴んだ。
あっ、と思うと、海斗は菅野くんから強引にあたしを奪い取った。
次の瞬間には、海斗の腕の中にすっぽりと収まっていて。
「渡さねー」
低く短く、そして強く。
頭のすぐ上で、海斗の声が言った。
何?
渡さないって、それって――。
頭が上手く回らない。
けれど、伝わってくる海斗の熱と波打つ鼓動に、ぎゅうっと心臓だけは締め付けられる。
「やっぱ、そーゆーコトか。
素直じゃなさ過ぎるよな、海斗」
嘆息した菅野くんに、海斗は押し殺した声で言った。
「……ほっとけよ」
あたしを抱き締めている腕の力がそこで緩んだ。
途端に二人の身体が離れて、あたしは足元がふらついた。
あまりにも突然な出来事と展開についていけなくて。
雲の上にでも立っているみたいにふわふわしていて、実感が、湧かない。
まるで、夢に包まれているよう。
そして。
そこに――あたしのすぐ横に立つ海斗を見上げた。
ホントに、どうして?
何で、ココにいるのも知ってたの?
「俺が呼んだんだよ。
さっき高速乗る前に、コイツに電話したんだ」
口に出していないのに、あたしの思ったことに返答するように菅野くんが言った。
「電話?」
「協力するって、言ったじゃん?」
「だって……」
「さっき言った言葉は嘘じゃない。
だけど、最初から分かってたしね、こういう役回りだって。
菜奈ちゃんが幸せになってくれること、邪魔したくないよ。
それはきっと、さっきの菜奈ちゃんと同じだよ。
菜奈ちゃんが、海斗を想う気持ちと」
そう言った菅野くんの顔は、優しく穏やかな顔つきだった。
そして、少しだけ微笑んだ。
海斗を想う気持ちと――……。
菅野くん……。
「ごめんなさい……」
「いいよ」
と。
そう、菅野くんの声が耳に届いたかと思うと、突然目の前で鈍い音と共に、海斗の身体が飛んだ。
「きゃあっ」と声を上げた時には、狭いコンクリートの床に叩きつけられたように大きな身体が倒れていた。
あたしはすぐに海斗の脇に座り込んだ。
「……ってぇ」
「海斗っ! 大丈夫っ!?」
海斗は片手で身体を起こし、きゅっと手で唇の端を拭った。
その手の甲と顎に、擦れた赤い線がいくつも滲んでいる。
――血が出てる!
その場からすぐに菅野くんを見上げると、胸の前で握り締めている拳は同じように赤い液体が付着していた。
海斗よりも、べったりと。
それは海斗から出血して付いた血ではなくて、彼自身からのもの。
きっと、殴った時に歯で切ったんだ。
「もう泣かすなよ、海斗」
菅野くんは海斗に強い一瞥をすると、くるりと背中を向けた。
けれど、後ろを向く一瞬前に見えた表情は、また違うものだった。
ぎゅっと結んだ唇の両端は下がり、細めた瞳は苦しげに歪んでいて。
苦労して抑え込んだ、そんな表情だった。
菅野くん……。
声がかけられない。
何を言っていいのかも分からない。
かけたら、深い優しさをもっと傷付ける気がして……。
あたしは、菅野くんの後ろ姿を無言で見つめた。
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