31.ゲームセット -1 | 隣の彼

隣の彼

あたしの隣の、あのひと。……高校生の恋愛模様。


菅野、くん……?


「もう、無理。止まんないから」

「……え」

「好きになるな、って、いう方が無理」


突然のことに驚いて、どうしたらいいのかなんて分からなかった。
ただなされるがまま、菅野くんの腕の中にいる。
きつく締め付けてくる腕と触れている体温が、彼を感じさせる。

顔を上げると、切なく揺れる瞳が、あたしの目に映し出された。

菅野くんは、苦しげに顔を歪ませ、指の腹でそっとあたしの涙を拭った。
そして、頬を柔らかく撫でるように触れてくる。
なのに、あたしはその手が振り払えない。


「鍵も外したんだから、もう海斗のことは忘れてくれ。
本気だから。菜奈ちゃんが好きだ」

「菅野くん……」

「俺じゃ、駄目?
海斗を忘れるために利用してもいい。
だから――……」


頬から掌が離れると、そのまま頭へと回され、胸に顔を押し付けられた。
そこから、ドクドクと早鐘を打つ心臓の音が響いて伝わってくる。
彼の気持ちも、一緒に。


――菅野くん……。


あたしは馬鹿だ。本当に。
何でここまで鈍感なんだろう。
瑞穂もミカも、鈍いって言ってたのに。

『利用してもいい』なんて――。
既に利用してるよ、こんなの、あたし。

優しい菅野くん。
海斗とのことも『協力する』って言ってくれた。
今もあたしのために、ここまで付き合ってくれて、鍵まで一緒に探してくれた。

どんな気持ちにさせてた?
苦しませたよね、きっと。

何で、あたしはこんなに馬鹿なの……。


「ごめん……なさ……」


苦しくて、なかなか声が出ない。
振り絞るように言ったけれど、途中で掠れた。

海斗への気持ちも。
菅野くんへの罪悪感もふがいなさも。
一緒くたに混ざり合って、胸が潰れそうに痛い。


「俺じゃ、駄目なの……?」


切れそうな声で、菅野くんが言った。
あたしは、かぶりを振る。


「好きな気持ちは、簡単に変えられないよ……。
いい加減な気持ちで、菅野くんとは付き合えない」

「それでもいい、って、言ってるのに?」

「そんな失礼なこと、菅野くんにはしたくない」


菅野くんは口をつぐみ、あたしを見つめる。
あたしも黙ったまま、彼から目を逸らさなかった。

誰もいないテレビ塔のこの階に、張り詰めた静けさが戻った。
緩まった風に揺らされた木々だけが、時折葉の音を立て、二人の間に流れる。

その静かな音の中に、何かの音が混ざったような気がした。
何か高く響く音。

それは気のせいではなかった。
金属を蹴るような、そんな音がどんどんと近づいてくる。


「信じらんねぇ……」


急に菅野くんが、クッと笑う。


「王子様の登場だ」


何?


と、思うと、身体に回されていた腕の力がするっと緩まった。


「タイミング、良過ぎだろ? 海斗」


――えっ!?


菅野くんの口から出た名前に驚いて、勢いよく振り返る。

ドキンと、大きく心臓が鳴った。

たった今入り口に現れたその人は、紛れもなく海斗で――。
息を切らせ、腕で汗を拭う。

その仕草のあと、あたしをまっすぐに見据えてくる。

熱い視線。
射抜くような。逸らすことの出来ない強い瞳で。


「海斗……何で?」

「オレが訊きてーよ……」


訊きてーよ、って――。


「何、それ……」


わけが分からないまま口から漏れた言葉を全部言い切る前に、海斗があたしの腕を掴んだ。

あっ、と思うと、海斗は菅野くんから強引にあたしを奪い取った。

次の瞬間には、海斗の腕の中にすっぽりと収まっていて。


「渡さねー」


低く短く、そして強く。
頭のすぐ上で、海斗の声が言った。


何?
渡さないって、それって――。


頭が上手く回らない。

けれど、伝わってくる海斗の熱と波打つ鼓動に、ぎゅうっと心臓だけは締め付けられる。


「やっぱ、そーゆーコトか。
素直じゃなさ過ぎるよな、海斗」


嘆息した菅野くんに、海斗は押し殺した声で言った。


「……ほっとけよ」


あたしを抱き締めている腕の力がそこで緩んだ。
途端に二人の身体が離れて、あたしは足元がふらついた。

あまりにも突然な出来事と展開についていけなくて。
雲の上にでも立っているみたいにふわふわしていて、実感が、湧かない。
まるで、夢に包まれているよう。

そして。
そこに――あたしのすぐ横に立つ海斗を見上げた。


ホントに、どうして?
何で、ココにいるのも知ってたの?


「俺が呼んだんだよ。
さっき高速乗る前に、コイツに電話したんだ」


口に出していないのに、あたしの思ったことに返答するように菅野くんが言った。


「電話?」

「協力するって、言ったじゃん?」

「だって……」

「さっき言った言葉は嘘じゃない。
だけど、最初から分かってたしね、こういう役回りだって。
菜奈ちゃんが幸せになってくれること、邪魔したくないよ。
それはきっと、さっきの菜奈ちゃんと同じだよ。
菜奈ちゃんが、海斗を想う気持ちと」


そう言った菅野くんの顔は、優しく穏やかな顔つきだった。
そして、少しだけ微笑んだ。


海斗を想う気持ちと――……。


菅野くん……。


「ごめんなさい……」

「いいよ」


と。
そう、菅野くんの声が耳に届いたかと思うと、突然目の前で鈍い音と共に、海斗の身体が飛んだ。

「きゃあっ」と声を上げた時には、狭いコンクリートの床に叩きつけられたように大きな身体が倒れていた。

あたしはすぐに海斗の脇に座り込んだ。


「……ってぇ」

「海斗っ! 大丈夫っ!?」


海斗は片手で身体を起こし、きゅっと手で唇の端を拭った。
その手の甲と顎に、擦れた赤い線がいくつも滲んでいる。


――血が出てる!


その場からすぐに菅野くんを見上げると、胸の前で握り締めている拳は同じように赤い液体が付着していた。
海斗よりも、べったりと。
それは海斗から出血して付いた血ではなくて、彼自身からのもの。
きっと、殴った時に歯で切ったんだ。


「もう泣かすなよ、海斗」


菅野くんは海斗に強い一瞥をすると、くるりと背中を向けた。

けれど、後ろを向く一瞬前に見えた表情は、また違うものだった。
ぎゅっと結んだ唇の両端は下がり、細めた瞳は苦しげに歪んでいて。
苦労して抑え込んだ、そんな表情だった。


菅野くん……。


声がかけられない。
何を言っていいのかも分からない。

かけたら、深い優しさをもっと傷付ける気がして……。


あたしは、菅野くんの後ろ姿を無言で見つめた。






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