死ぬということ、生きるというエネルギー | 私と森羅万象・・・

私と森羅万象・・・

右へ行くべきか、左へ行くべきか?
人生は何時も決断を迫ってくる・・・けれど
なんだか慣れてきたように思う今日この頃です

大原麗子さんの遺骨を安置している映像が仰々しくなくて好感がもて、


あぁ 良い感じだなぁ・・ とテレビを見て思う。(これ見よがしでないとこがいいですね)



「死」は簡単に言うと全てのものとの別れだ。


別れの決心ができていないものは死を厭い、心残りがあるので、なかなか死に突入できない。


私の父の場合もそうだった。体はもはや「生」の状態を保てないのに、


なかなか死に向かえないでいる父の状態を見て


死なないのは、ひょっとして別腹が生んだ子に会いたいのではないか?  と思い、


彼女に連絡をとり、危篤状態の父に会わせたら1時間もしないうちに、あっけなく父は逝ってしまった。




私が以前夢で疑似死体験をした頃、 もうこの生涯に幕を閉じてもいいな・・・と、正直思っていた。


当時、様々な出来事に嫌気がさしていた私は人生のすべてと別れも苦にならない


この生涯を閉じて、もぅ 別な場所に移ってもいいな・・ と、本気で思ったのだ。


(輪廻転生を信じていると、そんな風に思えてしまうところがいけませんねぇ。)



しかし、意識の中には「生」に対する思いがけないほどの 強い執着 が存在するようだ。


この今、生きているという状態を続けたいという欲求が自分も知らない意識の根底にあって


回転する光で体の四肢を切りつけられるたびに自分の中にあるものに気づかされたと言っていい。



あの時、光は左腕の付け根から始まって、右腕、左右の足の付け根…と次々に私を分解するように切っていった。


しかし、その間 私の中に沸き起こってきたのは「自分」という強い意識だった。


四肢が分解されても意識が残る・・・ ということは(未だ死なないぞ・・)という意識だったのだ。



去年、体が溶け始めて死に向かっていた父を保たせていた微弱な「生」のエネルギーは何だったのか?


父の体は紫色に変色し、体液はすでに流れ始めていたが父は溶け始めた体にとどまっていたのだ。


あの光景が今も忘れられずに脳裏に浮かぶ。(興味のある方は去年の7月のブログを読んで下さい)




エネルギーは何によって発生するのだろう? 仏教では行為・思念・縁が構成因と考えるけど


なんなんだろうね? 大原さんの祭壇を見ていたら、そんな色んな事をつい考えちゃっいました。