tightrope タイトロープ とは、綱渡りや綱渡りの綱のことを指すが、人生に例えられることも多い。
同窓会をやると事前の連絡を貰い、幹事役と話しをしていると、幼き日の懐かしい顔の幾つかが既に参加が叶わぬのだということに驚かされた。
同じ時を過ごし、何十年もの月日を経て、その間に交わることのなかった皆と会うこととは、懐かしさを求めて以上の何があるのか、捻くれ者のボクには分からないが、時が経てば経つほどに「生死」の状況を目の当たりにすることになる。
天命を全うしたならば「そうか」となるも、自死を選んだ者が想像以上に多い現実を目の当たりにすると「なぜ」の想いしか浮かばない。
尻の蒼い時代の屈託のない笑顔しか浮かんで来ない中で、その後の人生に何があったのかは窺い知れない。
ただ、ロープの上の正常とロープの上に無い狂気に分かれたタイトロープを渡り、狂気の世界の方へと身体を投げてしまったのかと言い様の無い感情が湧き上がる。
何かの出来事が起きるまでの日常にはタイトロープなどは目に見えぬモノなのだろうと思うが、それは目に見えぬだけで、実際には幾つものタイトロープを渡っているのが人生の姿のようにも思える。
気付くか・気付かぬかも然ることながら、意識的にタイトロープを用意してしまうのが自死の姿なのだろうか。
その時に感じていたであろう恐怖と悔恨と無 etc. など、誰にも分かりはしない。
その思いを察する他人は、自分の経験値のなかでしかその状況を察することしか出来ず、勝手な推論の理由付けしか実際には生まれない。
余談として附記するなら、心理学やカウンセリングによる救いの限界などはここにあり、本質的な意味において救いの効果を考えた時には、圧倒的に宗教や思想にこれを求めることが多いのかと思い至りもする(活用の在り方が違うため否定の意味ではない)。
タイトロープの上は「明」であり、それ以外は「闇」とした場合、闇の世界のことなどこれ程まで科学が進化したといわれていても何も解明されてはなく、闇の世界に一縷の望みを描いてしまった人に対して、それが間違いだと言い切れるだけのモノをボクは持ち合わせていない。
ただし、そうであっても自死を選ぶことは間違いだとも思っている。
論理的には整合しない矛盾ではあるが、例え闇の世界に光を見出してしまっても、自分の命の長さのロープは渡らなければならぬように思っている。
医学的にみて余命が明らかで、苦しみのなかで自我と尊厳が冒されるような場合の選択にはまた違いもあるのかとは思うのだが、それ以外の場合には、生死に対して、自死の選択権などあってはならず、権利と義務の二極論で語るべきものではなく存在する課題のように思えてもいる。
解とともに言語化出来ぬ苛立ちがあるのだが、己の命の灯が消える時までには何らかの愚見として胸に秘める解に辿り着きたいと思っている。
同窓会の参加は断りを入れた。
最近感じ続けている疲れの正体は、タイトロープを感じ続けていることでもあり、
微妙な心情のなかで昔の仲間と談笑を交わす気にはなれなかった。
我ながら不器用だと思う。
この疲れの状況から抜け出すことが出来るのか、
命の灯が消えるまで抱え続けるのかは分からない。
安息の地を求めてとも言われるが、
心の温泉が欲しい今日この頃でもある。
思いもあり毎日綴っているブログだが、
マスターベーションの垂れ流しは止めるべきか、
考えることも多くなりつつある。
タイトロープの命の長さは誰にも分からない。
程好い弛みがなければ安定感にも欠ける。
四面楚歌の状況であっても、自分にも周りにも時は流れ、
想像し得なかった現実が目の前に現れても来る。
こんな時は、時の流れに身を委ね、心の温泉探しの旅に出て、
ビバノンノンと行くべきなのかも知れないと思う今日この頃だ。
The tightrope of the life.
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