日暮れて、風呂の窓を開け心は秋野に遊ぶ | 酒とホラの日々。

日暮れて、風呂の窓を開け心は秋野に遊ぶ


  秋の庭

9月、長月、夜長月。


もう夏ではないのかもしれないけれど、秋というにはまだ蝉も鳴いているし、日中は何食わぬ顔をして平気で30度くらいにはなって蒸し暑いし、私もTシャツにサンダルで近所を歩いていたりすると
、とても平生は秋を実感するところまでは行かなかったりする。(でもちょっと気になるので秋色夏服である)

 
手元の理科年表をめくってみると(これもツンドク本の典型かもしれない)、東京の9月の平均気温は1971年の21.1度からじわじわと上昇を続け、2005年には24.7度に達して、30年少々の間に3度以上も違うという目を疑うような記述もある。 
これでは身の回りの虫や草はもちろん人の生活スタイルだって変わってくるのは当然だろう。いずれにせよ今年は目や体、気分にしみ入るいるような秋の実感はまだ無いような気がする。
 
それでも毎日目覚めともに眺める朝顔のつるに勢いはなくなったし、日の暮れるのは早くなって日没後の秋の虫の大合唱がだいぶ大きくなった。 砂糖菓子がとけて壊れていくように夏のエレメントが徐々に欠けていき、あまり気にも留めないところから日常の構成は秋の部材に置き換わっているらしい。
 
ともかく意識しようとしまいと季節は進行していくのは人間の生活サイクルも同じらしく、今頃の時期なると、
ものぐさの私とてどうしたことか夏の間に伸びた庭木を剪定したり、秋の病害虫の薬剤散布を始めたり、また秋まきの花や野菜の種ををいろいろ蒔いてみようかとひとりでに勤勉な行動を起こしているのは不思議なことだ。

単にびんぼう症というのかもしれないが。

 

ともかくガーデニング作業にひとまずけりを付け、これもまたもったいない精神の発露から刈り取ったハーブティーで一息ついていると 、町内のチラシに近所の祭りで鈴虫のかごをただで配布するという広告があった。するとまた「ただ」が好きであると同時に、たちまち虫かごに秋の原の広がりを感じるような風情への憧れを催してもらいに行こうかという気分が一瞬頭をもたげる。

 

    秋の野を 手にさげてきく 虫籠かな   (貞徳)


なるほど鈴虫の声は風流だし、きちんと人の手を掛け育てられる彼らは秋の虫の正当種なのかもしれない。 でも私としては子供の頃ならいざ知らず、今は虫の世話に割く時間も手間もないし、なにより狭い虫かごに閉じこめておく事が何となく後ろめたくもあり、きっともらいには行かないだろう。
  
日が暮れて、開け放った窓から流れ込む様々な庭の虫の混声大合唱は、

鈴虫のような正当品種のブランドではなくて、

植物で言ったら雑草のかたまりのようなものかもしれないが、

秋の野にいる風情に浸りこむには十分だ。