柳のある店で | 酒とホラの日々。

柳のある店で

ヤナギの新葉

私のお気に入りの中華料理店には、店の前の狭い地面に大きな柳の木が生えている。葉の落ちた冬の間はひっそりと目立たなかった木も今頃の時期になると急速に芽を吹いて、柔らかな葉をまとった枝が風になびくようになる。

それはまるで店前にあって客を招き入れるかのような姿態にも見えて、私などはこの誘いに負けてふらふらと寄り道してしまうということもないわけではない。
 
店自体も自家製の紹興酒と四川風の料理は日本人にも合うようによく工夫され、明るい店内ときれいな調度品は少し昔の上海近郊への小旅行気分も味わえて、気の合う仲間内ばかりかデートにも使える便利な店だ。 

 

二階の窓から眺める柳の向こうに枝葉を透かして街の通りが見下ろせる。行きかう人とネオンをふちどる緑の葉は春から初夏の控えめさがいい。 夏は緑一色しか見えず、冬は葉の散った枝がさびしすぎる。 育ちきらない初々しい新葉は、この先の重苦しい濃緑も落葉も知らず何の煩いもなくただ茂ることだけを考えているかのようだ。
 
新芽のゆれる柳を眺め、無条件に若さが愛されるのは人もまた同じか、と思わずつぶやいたところ、向かいに座っていたR嬢が言った。

若さなんてそれだけでは価値少なく、老境こそはわが憧れなり。
柳もまた葉の散りつつしだいに木枝があらわになる晩秋が好き。
 
うら若いR嬢から発せられたその言葉に思わず軽い動揺を感じた私は適当な返句が思いつかなかった。 ただ、R嬢もいま少し年が行って青年の部BやCに至れば、またその先老境とやらにいたれば、きっと感慨も変わってくるのではないかと考えるのは、単に青年の部Bのひがみなのだろう。

 

そう感じた私はR嬢への明確な反論はあきらめ、少々視点を変えて論調の合流する地点を探ってみた。
「巡る四季に応じてその時々に柳の葉が多様な表情を精一杯演じるように、
いかなる年代においてもその時期そのものを愛でるのは人の楽しみでもあり

義務なるべし。
そう思えば今日この時を楽しまないのは人生の怠惰なり。
君にあっては青年の部Aを楽しみ、私は青年の部Bの分を知って
これを喜ばん。」
 
柔らかな風にゆらゆらと揺れる青葉を眺め杯を傾ける春の晩は、
ゆるゆるとゆっくりと時間が過ぎていったのだった。