ジャックもガイも、シンゾーもタロウも、みんなアーティスト | 酒とホラの日々。

ジャックもガイも、シンゾーもタロウも、みんなアーティスト

 
どうしてそんなふざけた話ばかり思いつくのかと聞かれることがある。
さて、どうしてだろう。

私の文を書くという遊びがいつから始まったのかわからないが、
話を作ろうとしたことは小学生のころにも一度ある。
胸ときめく冒険譚、息詰まる動物物語、そんなものを私も
書けるものだろうかと思って、頭を空にし物語がわいて
出てくるのを待ったのだが、待てど暮らせど物語はわいてこなかったし
ラジオが空中の見えない電波を捉えて音声を流すようには
どこからもお話は送られても来なかった。
 
私はお話を作るのに向かないいらしい、と文章を書くという遊びには
それからしばらく手をつけることはなかった。

  

実際のところ、イメージは無からは生じない。この事実を具体的な言葉として
私に提供してくれたのはフランスの哲学者バシュラールだった。
あるとき読んだ彼の著作「空と夢」の冒頭に
「想像力とはイメージを歪曲する力である」というようなことが書いてあり
くそ生意気なガキだった私は目からうろこが落ちる思いだった。 

 

それで文章を書くようになったわけではないけれど、

これに関して思い出すのは、当時子供の間ではやっていた

たわいもない遊びに名前の文字ずらしと言うものだ。

それはこういうものだ。

ながさわ まさ  これを一文字シフトして
ながさわ まさ

    あるいはこんな

 

 まつだ せい    一文字シフトして
まつだ せい

一文字シフトでまったく別人の名前のようなものができるが
引きずられた元の人間のイメージが歪曲されてまたなんとも面白かった。

あるとき、ひとりで退屈していたわたしは
なんとなく知り合いの名前をシフトしたのだが、それは

 
村井重人
むらい しげと  これをシフトして

むらい しげ

 
こうして婆さんの暗殺者、「弔いシゲ」が生まれた。
情け無用の仕置き人、狙った相手はどんな非情な手段を使っても必ず仕留める。
得意技は故人に線香をあげにやってきた相手が手を合わせた瞬間に
潜んだ仏壇から飛び出して仕留める仏壇返し
  
むちゃくちゃな設定とストーリーを法事で親戚やいとこに披露して、私は世間のごくわずかしかいない

読者の顰蹙をかったものだった。

  

私が思うに一番難易度が高いのはこっけいな話だと思う。

逆に簡単なのは論説文や美しい情景描写、悲しい話、叙情的な話である。
これらはむやみに難しい言葉や決まったパーツとなる要素を並べていけば
そんなに難しくなく出来上がる。

 
一方、こっけいな話はこっけいと思わせるための毎回新鮮な独自の要素が
必要になる。量産はできないし、どんなにがんばっても(がんばらないけど)
いつもいいものができるとは限らない。
 
より困難でよいものにトライするとするところに手ごたえと楽しみがあるのは
スポーツだって、楽器だって、絵だって同じことだ。

誰にとってもその楽しみこそは浮き世の憂さや苦をちょっとの間隅に追いやってくれる。

そして何でも下手でもいいから、より良いものにしようとすることこそ楽しみと充実の秘訣だ。

 
だから、どんなに批判を受けようと皮肉られようとも、文を書くのは素人の私の

ある種の挑戦とでも言うべきトライアルであるのだろう。