私がカフェオレボウルを買ったわけ | 酒とホラの日々。

私がカフェオレボウルを買ったわけ

町中にある雑貨屋だの食器屋だのというものは、何の買い物のあてがなくともなぜか目を引かれるものがあるものだが、きっとそんな人は多いのではないのだろうか。時折変わる店頭のディスプレイはすっかり街中の季節の風景としてあって、郊外では人が四季折々野山の色や風の匂いの変化を追うように、私たちは街中にあっては小さな店先のウィンドウを眺めるというわけなのだろう。
 
私が通勤時に通りかかる雑貨屋のショーウィンドウには、ここ数日は大きなカフェオレボウルが並んでいた。
寒いこの季節の生活の点景ががカフェオレボウルというわけなのだろうか。


カフェオレなどというコーヒー牛乳ごとき、冬に専用容器を使わずともいつどうして飲んでも勝手だろうという気もするのだけれど、この店の外側が茶色で内側をクリーム色に塗り分けられた、ぼてりと素朴に大きなカフェオレボウルには、そんなスタイルの押し付けがましさは微塵も無くて、ただちょこんとおとなしく店先に座っているだけだった。
 
そんなお世辞にもスマートとはいいがたい、できの悪いどんぶりのようなもっさりした形と色が気に入って目を止めると、なんだかボウルが動いた。いや、動いたような気がした。まさかと思って目をこすってよく見ようとしたら、そこには茶色のカフェオレボウルではなくて子ダヌキが一匹ちょこんと座っていた。これがなんだか見たことのある子ダヌキである。
「ああーっ、ひょっとしておまえは近所の森の子ダヌキか?」
私の家のある住宅地に沿った木立にはいまもまだ狸の一家が住み着いていて、去年は子ダヌキが二匹現れたことが近所の話題になっていた。朝夕の通勤時に私も何度も見かけて、よく目が合ったりもして、いわば顔なじみのタヌキだが、その子ダヌキにそっくりだったのだ。子ダヌキはちょっと困惑したように首をかしげて哀願するようにこちらを見つめていた。街中に迷い込んで困った子ダヌキが店の商品に化けて隠れていたのだろうか。


「それにしても私に目をつけるとはおまえなかなか人を見る眼があるなあ、他の人間ならタヌキ汁にして毛皮は襟巻きにするところだ。」
私はぶつぶつ独り言を言いながら店に入ると、またウィンドウのタヌキはカフェオレボウルになっていたのだが、私は迷わずこれを買って紙袋をぶら下げて店を出たのだった。 ただ、タヌキの木立に行くまでもなくわが家の前に差し掛かったころには、いつの間にか手に握っていた紙袋は消えてしまっていたのだが、きっとタヌキは無事帰れたのだろう。

* *

次の日、またあの雑貨店の前を通ると、中から私を見止めた店主が出てきて、先日のカフェオレボウルは実はペアカップでもう一つ渡すのを忘れて申し訳ありませんでした、と謝るのだった。カフェオレボウルのペアなんて聞いたこともないが、きっとあのタヌキが気を使ってくれたのかもしれないと思って、私は黙ってもう一つのボウルを受け取ることにした。

こうして手に入れたカフェオレボウルをいじっていると、思わず頬がゆるんでいる事がある。「すぐ飽きるくせにまた余計なものを買ってきて家の物を増やして・・・」という家族の視線を感じることがあるが、タヌキの救出劇の件はどうせ信じてはくれまいからこれは黙っている。だからカフェオレボウルの購入はいつもの私の気まぐれということになっているのだけれど、まあこれは仕方あるまい。