ひとが、何かを語ることを恐れてしまうのは、

自分の考え、行動に、どこか非が、矛盾が、あると感じているからだ。



語ることができない人を、周りがわかっていながら傍観し、

それを問わない、責めないこと、それが周りの優しさ?

それは常に優しさ、正しいとは、思えない。




そう思ってしまった周りのいち外野として、後で後悔しても、その選択は後で取り返しがつかず、永遠の闇の中に漂うことになりえる。


選択とは、覚悟とは、ときに非情である。

後悔は、拭い去ることが難しい。


しかし、選択をした事実が正しかったのかどうかは、神でもわからないかもしれない。

誰もわからない、その選択に、人は後悔をし続ける。



後悔という感情を自覚するのなら、その事実を忘れることなく、忘却せず、目をそらさず、自分のできることを、生きていくなかで見出す努力をする。


それが、生きていく、残された人が、人であるための、責務であると思う。



自ら語ることは、生き様である。


生きるということは、選択と覚悟が必要だ。



繰り返す。 医道とは、生きるということは、常に選択と覚悟が必要だと感じる。



人生を受け止め、理解し、立ち向かい、そして許容し、自分を許してあげてください。



因果は、ときに残酷である。


残酷でもなお、その中に幸せを感じる、それが人というものではなかろうか。









「吹田徳洲会病院 がんカテーテル治療センター」



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