『古新潟(ふるにいがた)』と『新ン新潟(しんにいがた』・・・・・新潟の「原点」位置の移動/更新版 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

『古新潟(ふるにいがた)』と『新ン新潟(しんにいがた』・・・・・新潟の「原点」位置の移動/更新版

万代橋1684 地形図:新潟都心 警「美」報 告 書 ☆彡 ........................ 街と電車と時々グルメ  ▼CAMMIYA-新潟050319683




江戸時代の新潟・・・・・


行政を担う町奉行(設置当初は「代官」で、後年になり「奉行」に格上げ)

同心屋敷が、

現在のNEXT21~三越付近に置かれ、

当時における新潟の街の「周縁部」に相当する

寺院街の中(図中①)に埋め込まれていた。。。




「新潟市史(通史編1上)」によると・・・

キリスト教宣教師の渡来防止と

海難救助のため「足軽」格の者を配置した沖の口番所(須崎番所=船番所)を

街の北端で

湊口近くの海辺に設置(図中②)。


なお、

街会所

(町人から選出される「検断」や「町老肝煎」および「町代」などの町役人と、

藩から出向してくる奉行や同心との、

町政に関わる寄合いの場として町中に設けられた町家)は

現在の第四銀行(だいしぎんこう)本店(図中③)付近に存在したらしい。




ちなみに、

当時の地子

(固定資産税)の高い場所・・・

すなわち街の最繁華地点は、

全国市場から

北前舟(西廻航路)で運ばれてきた商品を仲介する廻船大問屋が

信濃川に面して構えていた大川前

(現在の上大川前・・・・・図中④)

から、

新潟市中に卸すために

商品別に編成された問屋の表店

(おもてだな・・・・・表通りに面した店)が立地した本町(図中⑤)にかけて

あったであろうと推定されている



なお、

この当時の時点においては

現在の

・礎町(いしずえまち)

・下大川前

・川端町

・・・・・・・・など

は、

未だ水面下であったであろうと思われる。



また、

大川前に立地した

(新潟市中に卸す)問屋は「他門店(=裏通りに面した店)」と呼ばれたが、

1689年ごろには

表店とも競合するほどに成長し、

やがて本町を凌ぐ商業地帯に発展したとの記述が市史に出ている。



市中には細かな水路(掘割)が張り巡らされ

小船を利用して

他地域市場へ卸す商品を仲介した廻船小問屋の多くは

当時の掘割に面した

片原町(現在の東堀通・・・・・図中⑥)に店を構えた。



越後諸藩の「回米」は、

街の南端である白山神社の境内と

現在の新潟地裁(図中⑦)の場所にあったと考えられる「町蔵」に納められたが、

長岡藩の回米は

さらに南方に離れた関屋蔵所(図中⑧)に納められたらしい。。。




さて、


今日における

新潟最大の歓楽街となっている古町(ふるまち・・・・・図中⑨)は、

天正年間(1573~1592年)における

上杉氏支配時代からの湊集落部分であり、

当時は「本町」を名乗っていた。



その後、

長岡藩領となった

元和2(1616)年に

諸役免除を施して

長岡城下町(現在の新潟県長岡市中心市街地)の「外港」として位置づけられた際に、

より舟運に便利な水際線寄りに

新町(=後年の「本町」)などが町建てられ、

それまでの本町は「古町」と改称された。




しかしながら・・・・・


この当時における新潟湊町は、

現在とは全く異なる位置に存在した・・・・・・・

いわゆる「古新潟(ふるにいがた・・・・・・図中⑩=現在の日本海タワー付近)

であると考えられている。





すなわち、、、

現在の新潟都心部は

「新ン新潟(しんいいがた)」であり、

かつては

現在の東中通(国道116号線・・・・・図中⑪)付近を流れていたと推定される

信濃川の流路変更等により、

明暦元(1655)年に

「古新潟」の街並み区画形状を

なるべく保ちながら

現在地へ移転したものであると考えられる。




残念なことに・・・・・・

「新潟の原点」である、

「古新潟」の遺稿を

今日「街歩き」で探し出すことは非常に困難であろうと思われる。




*使用した地形図・・・・・1:50000「新潟」