『古新潟(ふるにいがた)』と『新ン新潟(しんにいがた』・・・・・新潟の「原点」位置の移動/更新版
江戸時代の新潟・・・・・
行政を担う町奉行(設置当初は「代官」で、後年になり「奉行」に格上げ)
と
同心屋敷が、
現在のNEXT21~三越付近に置かれ、
当時における新潟の街の「周縁部」に相当する
寺院街の中(図中①)に埋め込まれていた。。。
「新潟市史(通史編1上)」によると・・・
キリスト教宣教師の渡来防止と
海難救助のため「足軽」格の者を配置した沖の口番所(須崎番所=船番所)を
街の北端で
湊口近くの海辺に設置(図中②)。
なお、
街会所
(町人から選出される「検断」や「町老肝煎」および「町代」などの町役人と、
藩から出向してくる奉行や同心との、
町政に関わる寄合いの場として町中に設けられた町家)は
現在の第四銀行(だいしぎんこう)本店(図中③)付近に存在したらしい。
ちなみに、
当時の地子
(固定資産税)の高い場所・・・
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すなわち街の最繁華地点は、
全国市場から
北前舟(西廻航路)で運ばれてきた商品を仲介する廻船大問屋が
信濃川に面して構えていた大川前
(現在の上大川前・・・・・図中④)
から、
新潟市中に卸すために
商品別に編成された問屋の表店
(おもてだな・・・・・表通りに面した店)が立地した本町(図中⑤)にかけて
であったであろうと推定されている。
なお、
この当時の時点においては
現在の
・礎町(いしずえまち)
・下大川前
・川端町
・・・・・・・・など
は、
未だ水面下であったであろうと思われる。
また、
大川前に立地した
(新潟市中に卸す)問屋は「他門店(=裏通りに面した店)」と呼ばれたが、
1689年ごろには
表店とも競合するほどに成長し、
やがて本町を凌ぐ商業地帯に発展したとの記述が市史に出ている。
市中には細かな水路(掘割)が張り巡らされ
小船を利用して
他地域市場へ卸す商品を仲介した廻船小問屋の多くは
当時の掘割に面した
片原町(現在の東堀通・・・・・図中⑥)に店を構えた。
越後諸藩の「回米」は、
街の南端である白山神社の境内と
現在の新潟地裁(図中⑦)の場所にあったと考えられる「町蔵」に納められたが、
長岡藩の回米は
さらに南方に離れた関屋蔵所(図中⑧)に納められたらしい。。。
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さて、
今日における
新潟最大の歓楽街となっている古町(ふるまち・・・・・図中⑨)は、
天正年間(1573~1592年)における
上杉氏支配時代からの湊集落部分であり、
当時は「本町」を名乗っていた。
その後、
長岡藩領となった
元和2(1616)年に
諸役免除を施して
長岡城下町(現在の新潟県長岡市中心市街地)の「外港」として位置づけられた際に、
より舟運に便利な水際線寄りに
新町(=後年の「本町」)などが町建てられ、
それまでの本町は「古町」と改称された。
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しかしながら・・・・・
この当時における新潟湊町は、
現在とは全く異なる位置に存在した・・・・・・・
いわゆる「古新潟(ふるにいがた・・・・・・図中⑩=現在の日本海タワー付近)
であると考えられている。
すなわち、、、
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現在の新潟都心部は
「新ン新潟(しんいいがた)」であり、
かつては
現在の東中通(国道116号線・・・・・図中⑪)付近を流れていたと推定される
信濃川の流路変更等により、
明暦元(1655)年に
「古新潟」の街並み区画形状を
なるべく保ちながら
現在地へ移転したものであると考えられる。
残念なことに・・・・・・
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「新潟の原点」である、
「古新潟」の遺稿を
今日「街歩き」で探し出すことは非常に困難であろうと思われる。
*使用した地形図・・・・・1:50000「新潟」
※2007年6月30日現在の情報です
※2007年6月30日現在の情報です
※2007年6月30日現在の情報です