オマケ記事♪
先回まで
上巻・中巻・下巻の3部作で書いていたのは
七里山塘街(シャンタンジェ)
ですが・・・・
蘇州に「山塘街」って2か所あるんだよーw
駱駝は、昨年、地図見てて、気付いたんですけどね。
木渎古鎮にも、「山塘街」ってあるんですよー。
調べてみたら・・・・・。
「七里山塘街」と区別するために
「木渎山塘街」と、呼ばれているらしいデス(-ω-)
なんでも、近年整備されちゃった水郷で
規模が小さく、さほど有名ではないのかな?(-ω-)?
・・・・と思って調べてみたら!
七里山塘街(約1200年前の再建された街並み)
木渎山塘街(約2500年前の再建された街並み)
えぇっ!? こっちの方が古いぢゃん(@@)!!
・・・・・驚きでいっぱいです。
※とわいえ
街の歴史=山塘街の歴史ではないと思うので
機会があれば、こういうの詳しい方と
一緒に観光に行ってみたデスね(^-^)b
この木渎古鎮の歴史は、
旧市街地の園林庭園と同じく、
春秋時代まで遡れるらしいですね。
※春秋(戦国)時代っていえば・・・・・
「孔子」の居た時代ですね(^-^)b
ふと思う。
もしかして、乾隆帝が来た「山塘街」はコッチなの?
答え: 正解♪(^-^)
古鎮の中に観劇したところとか
イロイロ、残ってるようです。
なんせ6回も来てますからね、乾隆帝さん。
「清朝乾隆皇帝曾于 乾隆十六年(1751年)、
二十二年(1757年)、
二十七年(1762年)、
三十年(1765年)、
四十五年(1780年)、
四十九年(1784年) 六次巡幸江南」
飛行機のない時代、
生涯に6回も遊びに来たって・・・・・
乾隆帝さん、蘇州にハマり過ぎですww
なんせ、北京に戻ってからも、蘇州を忘れられず、
頤和園の中に「小蘇州街」を作ってしまうほどですからー。
当時は、宦官や宮女が商人を演じて「買い物ごっこ」したり
遊覧船で宴会をしたんだそうですよー。
食堂や茶楼、質屋、漢方薬屋、染物屋などが再現されてたそうです。
ってことで。
判ってきたら、断然、行きたくなった「木渎山塘街」ですが。
エリア西側のメインゲート
バス停近くの、木渎古跡エリアへの北門
この観光地はテーマパークのような囲われたエリアではなく
地元民の居住区に点在する史跡を訪ねる形式で
途中、気合いの必要な入館料を取られる
史跡がいくつかありますがww
組合票(4か所限定)もありますので、
ご興味おありでしたら、ぜひご観覧下さい(-∀-)
例えば~
乾隆帝が泊まった屋敷とか
乾隆帝が昆劇を観覧した屋外舞台とか
科挙(役人登用試験)で全国2位になった偉人の館とか
なんちゃらとか。
たぶん、歴史に詳しくなってから訪れたら
適正価格に感じられるのかも知れませんねww
そんな有料の史跡以外で楽しめるのは~
歌声と共に史跡をガイドしてくれる(らしい)お舟や
水路を渡れる、築600年超の石橋とか
かつては、観光水郷の西塘のように
こんな廊棚が有ったよ~的な残存物とかww
屋根付きの古蘇様式の橋とか
これらを探すのにウロウロしてる途中は
川岸の景色や
お土産屋さんが楽しい道中です♪
2012年頃から、かなりコテいれされ整備されたのですが
意外と「ザ・観光地」と言うほどでもなく。
故に、平江路ほどオシャレさはナイけれどぉ~
ちょっと休憩したくなるお店も点在してて
川沿いから、ちょっと脇道にそれると
木造の古い街並が、昭和チックでなんか懐かしい感じw
昆劇茶屋もありましたー(/≧∇≦)/
呉中区木渎古鎮下沙塘街42号43号
演出時間:13:30-15:30
平江路はお迎え出来ない時間帯しかやってないので
13:30~というのは嬉しい情報ですねw
駱駝の見た木渎古鎮は
観光地というより、歴史に触れる、お散歩道。
そんな印象でした ┐(´∀`)┌
とどのつまりぃ。
ココを水郷と思って、わざわざ新幹線に乗って
蘇州観光に来たのなら、
・・・・・ちょっと残念かもなのでwww
すぐ脇の灵岩山(霊岩山)お参りとの
合わせ技がオススメでーすw
実は・・・・木渎古鎮を見下ろす灵岩山(霊岩山)は
1時間も有れば登れる高さですし、達成感も充分w
それでいて、なかなか興味深い
史跡が残っています!
それはぁ?
中国史上4大美女の一人である
「傾国の美女、西施」と
「呉王」が過ごした別邸「馆娃宫」
・・・・の跡地が山寺の敷地内にありますよー。
中国古代4大美女
こっちも興味、そそられませんか?(^-^)?
お寺や館跡地の様子はコチラ↓
■ブログ内記事 蘇州で初詣 霊岩山編
<交通指南>
★古鎮の大駐車場に着きます
・バス停「木渎灵岩山旅游停车场」
668路
★古鎮と霊岩山の間のT字路角地にある
・バス停「灵岩山首末站」
夜3、遊4、326、511路
・バス停「灵岩山首末站②」
2、505、511、512、665路
★霊岩山の南、古鎮駐車場前の交差点から西へ(苏福路沿い)
・バス停「灵岩山」
43、64、65、312、446、663路
※312路は、新区の御花园~狮山路沿いを通る路線です
★エリア北側の中山西路沿い、北門のそばに
・バス停「木渎严家花园」
312、326、621、665路
・バス停「木渎严家花园(灵岩山)」
2、夜3、遊4、遊4長线、43、63、64、65、69、69区間、
315、446、505、506、508、511、512、663、691、692路
※新区や蘇州駅から、69路(区間の方が安い)で乗り換えなし
※2路は新区の狮山路~園区の現代大道へ。
★地下鉄1号線「木渎站」利用の場合は、
バス停「中华园大酒店」(金山南路沿い)
バス停「竹园路金山路西」(竹园路沿い)
※行きは、バス停「竹园路金山路西」(竹园路沿い)から
621路(灵岩山首末站行き)、668路(古鎮駐車場行き)へ
参考記事
http://www.geocities.jp/mkiyo111/mudu/index.htm
■ブログ内関連記事
木涜の霊巌山寺のある灵岩山
←山寺に行った話1
木渎を開拓せよ! 夏の陣・市場 その1
←古鎮付近の話
蘇州で初詣 霊岩山編
←山寺に初詣した話
※西施のうんちく
春秋戦国時代の末期、繁栄していた「呉」を
奇策で攻め落とし「越」は勝利します。
降伏した「呉」は、父王を殺された恨みから
太子は即位後もメラメラと復讐心を燃やしマス。
そしてついに「越」を下しましたが、
あまりに激しい恨みから、「越王」を殺さず奴隷にし
数年間の恥辱を与えたのちに、なぜか「越」に還します。
この雪辱戦として、ボンドガール達が
歴史上に登場する事になるんデスね~(^-^;)
「越」の参謀は、スカウトした田舎娘を、徹底的に訓練し
姿だけでなく、話し方や仕草、香水までも「呉王」好みに
仕上げて、美女10人が選ばれ、「献上」しました。
「呉王」は、献上品の「西施」を一目見るなりメロメロになり
片時も離さないほどに籠絡されてしまいます。
そして、コレを期に、忠臣との諍いも増え
内政がほころびて行くのですが
とある時、「西施」を連れて「呉王」が都を離れた隙に
「越」が攻め込んで宮殿を徹底的に破壊。
戻った「呉王」は無残な瓦礫を前に立ち尽くし
「西施」が放った「私達の愛の巣が・・・・」的な
メロメロ・パンチで「呉王」、どうかしちゃったみたいで。
街より先に宮殿造っちゃったんで、結果、財政破綻して
次の戦争でボロ負けして、「越」に降伏します。
んで、まんまと「越王」に殺されてしまうのですが。
歴史ドラマの脚本のような史実ですね(^^;)
ちなみに、「呉王」が捕らえられた頃から
「西施」と、この作戦を考え・実行した「参謀」が
歴史の表舞台から消えているらしいのですが。
ボンドガール「西施」は、ドサクサで、ちゃっかり逃げた
・・・・・という意見が多いようですね!
中国4大美女は、時には悪女として
時には、凄腕の女スパイとして描かれ
2000年の時を越えてなお、話題になる女性です。
凄いですよね~!!
でわ、最後に!
西施にまつわる4字熟語を残して
〆させていただきます~(--)
浅識ですがー。
駱駝的理解はこんな感じww
「臥薪嘗胆」
屈辱的な末路だった父王の悔しさを忘れないように
息子は王になっても薪を並べてその上に寝て
身体の痛みをもって「父王の痛みはコレ以上!」
と、復讐心を掻き立てたという、
かな~りアレな、自虐的行為から出た言葉(-Д-)怖いワ
「西施捧心」せいしほうしん
呉王の寵愛を一身に受けた美女西施が
胸の病気で、痛みから眉をひそめる姿が
あまりに弱弱しく、また美しかったので見とれる者が多かったが
ブサイクが真似て眉をひそめたら、ゾッとしたという話に起因する。
内実が伴わない真似・・・と訳されてマスが
「あの人のようになりたい」というローモデルは
常に存在するのが世の常。
あまりに酷い言われように、チョット同情(-w-;)
でわでわ(^-^)ノシ
長々と、山塘街シリーズを
読んでくださってありがとうございました。
続きの記事は、
実際に観光に行ったら、書き直してUPしますね~。
でわでわ~(^-^)
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