東国の都は存在した | 知っとうや(真実を求めて?!)

知っとうや(真実を求めて?!)

⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

歴史の真実を知るということの最大の重要性は、人類の未来をどのように変えていくべきなのか、これを考えさせることにあるのだと思います。過去を知ったところで、過去の事実を消したり、変えることはできません。歴史の教訓を未来に如何に生かしていくべきなのか、我々人類は誕生以来、試されているのでしょう。

時間や次元の概念の中で、金星系(スピ系)は、過去にも行くことが可能である、このような主張をすることがあります。

これは間違いです。過去の歴史は神様とて変えることはできません。変える必要がないのです。すべては学びだからです。以前、波動が低かった私も、そのような記事を書きましたが、間違いでした。訂正します。
<参照:過去にも行ける>

神様ですら過去には行けません。行く必要はなく、過去の出来事を見ること、知ることはできるようです。


さて、その歴史についてですが、これまで書いてきたように、世界中の歴史は大きく改竄されています。まだまだ、その改竄の全貌を把握したわけではありませんが、とんでもない改竄がなされていて、それをベースに現代人は生活しているのです。

特に、我々日本人は、歴史の事実を大きく捻じ曲げられて教えられ、日本人の本質を見失っています。それはそれは酷いものです。倭人の魂はどこに行ったのでしょうか。

歴史の過程では、金星系というキーワードを用いれば、ほぼ全ての矛盾が解決するのです。それを私はこのブログで主張しているのです。近い将来、これまで金星系が改竄してきた歴史の全貌が整理されるはずです。その時に、人類の未来は変わるのでしょう。

現在の日本の歴史の中で、最大級の謎といえば邪馬台国です。邪馬台国については、何度か書いてきました。もともとは北部九州の国。3世紀頃の話です。
<参照:邪馬台国>


ただし、邪馬台国の前には、紀元前1世紀頃まで、現在の奈良県中部を中心に葛城王朝が存在していました。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの王朝です。葛城王朝は第10代崇神天皇の誕生(紀元前97年)によって滅びます。金星系王朝の誕生ですね。
<参照:欠史八代と崇神天皇>

その後、第11代垂仁天皇(紀元前29年~70年)から正当な王朝が復活し、第12代景行天皇の時代(71年~130年)まで、奈良の中部が都として栄えます。この頃に古墳文化が始まったのです。

従って、近畿の邪馬台国説というのは、九州の邪馬台国よりも100年から200年古い時代のことなのです。さらに、それよりも古い時代には葛城王朝が存在したということになるのです。

古代の都といえば、九州や近畿など西国ばかり注目されて、関東を中心とした東国は、あたかも不毛の地であったかのような印象が強いです。確かに、人類の頂点に立つべき天皇は、初代のニギハヤヒ(正式名:天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)が九州の佐賀大和王朝で立ち上げました。その次、第2代以降は、明治時代に至るまで近畿地区で政を行っていました。東国が日本の中心になったのは、明治以降、たったここ150年の話です。

ところが、古代の東国にも、天皇こそいなかったものの、西の都に並ぶような都市があったようなのです。それは日本書紀からも読み取れます。

日本書紀、崇神天皇の段に、次のように書かれています。

「四十八年春一月十日、天皇は豊城命(豊城入彦命)・活目尊(後の垂仁天皇)に勅して、・・・・・・・。
四月十九日、活目尊を立てて皇太子とし、豊城命に
東国を治めさせた。これが上毛野君、下毛野君の先祖である。」

豊城入彦命は、何度も書いてきたように、現在ではイエス・キリストと呼ばれている人物です。彼は現在に伝わるイエスの生誕とその後とは、全く異なっているのです。これぞ現在の世界に大きな影響を与えている歴史上最大級の改竄です。
<参照:祇園・八坂はイエス>

豊城入彦命は、海外で活躍する前は、東国を治めていた皇子だったのです。皇位こそ、垂仁天皇に譲りましたが、東国の発展に尽くしたようです。

この頃の東国の中心地は、現在の宇都宮市周辺。豊城入彦命が祀られている宇都宮二荒山神社付近でしょう。
赤城神社がある関東北部一帯がに東国が広がっていたようです。

その後、豊城入彦命は、関東全域を治めるようになったのだと思われます。それは、実質的には豊城入彦命を祀る(すり替えられ素戔嗚尊などにされている)氷川神社や八坂神社が関東全域に広がっていることからも推測できます。

途中、崇神天皇の侵略によって、西国を中心に世の中が大変動しますが、
豊城入彦命は東国を中心に対抗するのです。

そして、豊城入彦命の時代、次の五十瓊敷入彦命の時代、さらにその次の日本武尊の時代に渡る、紀元前50年から紀元後100年までの約150年くらいの間に、東国の中心地は房総半島中部、現在の富津市辺りにも置かれたようです。

その痕跡が、富津市の内裏塚古墳群になります。
<WIKI:内裏塚古墳群>

先日、ここを訪れました。

まず訪れたのは稲荷山古墳。その名からプラチナが隠されていると思える古墳です。埼玉行田市の稲荷山古墳とも関係がありそうです。
<参照:プラチナと稲荷①>
<参照:プラチナと稲荷②> 
<参照:白金台の秘密>

稲荷山古墳①

稲荷山古墳②


次に飯野神社。江戸時代初期には広大な飯野陣屋があった場所で、神社の背後には三条古墳があります。

飯野神社①

飯野神社②

また、すぐそばには九条古墳があります。

三条に九条、奈良や京都を彷彿させる名前ですね。不思議に思っていました。

次に行ったのが内裏塚古墳。内裏塚古墳群最大の前方後円墳です。

内裏塚古墳②

内裏塚古墳③

『内裏』。ここは古代は条坊制を敷いた都市だったのです。

この内裏塚古墳のある場所が、かつての東国の都があった場所なのでしょう。時代は約2000年前頃の話です。日本史の通説では弥生時代中期にあたる頃です。我々が教えられてきた弥生時代のイメージとはずいぶん異なりますね。

これが歴史の真実なのです。古代は文化的には決して低くなく、逆に霊性的には現代とは比較にならないくらい高かったのです

日本全国に広がる古墳は、かつてそのような都市があった場所なのです。今では、3世紀以前の歴史はすべて消されていると言っても過言ではありません。金星系にとって都合が悪い歴史だからです。

ちなみに、前述の内裏塚古墳は、日本武尊が、自分の身代わりになって命を落とした弟橘姫(おとたちばなひめ)のために造った古墳です。歴史上、このことも消されています。

そして、この富津市周辺は、町中の個人宅に稲荷神を祀っている方が多かったです。この古代都市を消すために古くから金星系による稲荷信仰が行われてきたのでしょう。現在、稲荷神を祀っている方は、歴史の真実を知らず、代々家系に伝わる儀式として稲荷神を祀っているだけなのでしょう。正直言って、波動が低い街でした。

富津は古代東国の中心だったのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。