殺されるかどうかに、スカートの丈や、化粧の濃さ、髪の色が関係あるのか。
服装や化粧によって、殺されていいか悪いかを判断されなければならないのか。

若い女性が殺された時、報道を含め世間の話題やネットなどの書き込みでは、本人の私生活や容姿、服装などに関心が集まる。

三鷹ストーカー殺人事件、市川ストーカー殺人でも、被害者の画像と共に容姿や私生活について、沢山のネット上の匿名の書き込みが行われた。「あの女はビッチだ」「みるからにキャバ嬢」「どうせ遊んでたんだろ」「ストーカーされるほうに問題がある」
まるで被害者に対して殺されても当然だと言わんばかりのヘイトスピーチが繰り広げられる。過去の殺人事件でも同じような発言が繰り返されている。

中には、あからさまに被害者に落ち度があり殺されても仕方がないというような書き込みや、加害者を擁護するような書き込みまである。それは例え事件が起こらなくても日常的に女性に対して降り掛かってくる差別である。女性の殺人事件が起こると、職業によっても大きく差別がおこる。過去にキャバクラや風俗等で働いた経験があれば、それが大きく取り上げられる。「キャバ嬢に人権はない」「キャバクラで働いたりしてるからだろ」「どうせ楽して稼ごうとしたんだろ」当たり前にそんな言葉が投げつけられる。

水商売や風俗で働いているというだけで、多くのことは自己責任論に転化され、被害者に原因があると攻められる。給料が払われなくても、暴力を振るわれても、レイプされても、殺されても。
スカートの丈が短ければ痴漢にあってもしょうがない、服装が派手ならレイプされた原因を作ったの本人だ。キャバクラで働いたならセクハラされて当たり前。

匿名の第三者によって、本人に原因がないか、又は、本人がそのような事にあっても仕方がないか、品定めされなければならない。被害にあった後もなお、さらに差別され暴力に晒されなければならない。女性がどれだけ、そんな目線で消費され、扱われているかを、殺人と言う事件でしらしめられる。あきらかな差別と暴力が溢れかえっている。そんな、ちまたに溢れかえる差別的な言葉が、一人の人をまた殺す。そしてその言葉が、差別的な扱いや行動をまた産み出す。差別がまた新たな被害や事件を産み出すことを決して見過ごしてはならない。

わたしたちは差別と戦い続ける。水商売や風俗で働く女性が、暴力に脅かされても仕方がないなんて言わせないように。誰もが差別のもとで生活を脅かされないように。

匿名でネットに書き込みをする人も、自身が吐き出す差別によって、誰かが殺されることを考え想像し慎むべきだ。そのことに生きることを危ぶまれる人たちの事を考えるべきだ。

わたしたちは被害者への差別的言論に抗議する。


キャバクラユニオン 2013年12月3日