史跡上総国分尼寺跡に行ってきました。金堂の回廊と中門が復元されています。
さて問題です。「上総」とは何県にあるでしょうか?
史跡上総国分尼寺跡展示館の資料より
正解:千葉県。
昔千葉県には、3つの国がありました。南から「安房」「上総」「下総」です。
北が「下総」で、南が「上総」です。地図を見る時、北が「上」なので違和感ありますよね。
回廊
昔は陸路の交通が発達していませんでした。徒歩か馬で移動ですね。ですから、遠くへは海を船で行くのが早かったのです。
静岡の沿岸沿いから三浦半島、そして「上総」へ渡ったのでしょう。そう考えると、南の方が「上総」となるのもうなずけます。
中門
天平13年、聖武天皇は仏教による鎮護国家を願って、国分寺建立の詔を発布しました。総本山が、奈良の東大寺・法華寺ですね。
62の国々に、国分寺・国分尼寺が建てられました。もちろん「上総」にも。今の市原市です(ゴルフ場で有名だと思います)。
上総国分尼寺は、もっとも規模が大きく12万㎡もあります。特別な国分尼寺だったようです。
奈良の飛鳥と同じ瓦が出土しています。窯元が近くにあるので、高い技術を持った工人が移住してきたのではないかと思います。
どこかの国の国分寺の瓦も比較のため展示されていましたが、上総国分尼寺から出土された瓦に比べるとだいぶ技術に差がありました。それほど上総国分尼寺は特別な存在だったことがわかります。
回廊の格子窓
復元された時は当時と同じ染色法で塗ったそうです(どんな物を使ったか説明してもらったのに忘れてしまいました)。改修された時に、持ちがいいように現代の塗料で塗り直されちゃったんですって。
国分寺(僧寺)は中国にも例があるそうですが、国分尼寺は日本独自だそうです。光明皇后の力が強かったんでしょうね。
この光明皇后は、仏教にあつく帰依し、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」・医療を施す「施薬院」を作りました。
上総国分尼寺跡には、薗院(えんいん)や花苑があり、薬草や野菜を育てていたようです。これを庶民にわけてくれていたかは、謎です。だって、仏教・寺院は国のためにあった時代ですから。
金堂跡
手前の1段高くなった所から、銅灯篭と中門を撮ってみました。
金堂は仏像を安置する建物です。回廊を巡らせた庭も含め、特別な時にしか入ることは許されませんでした。いわば聖域ですね。(回廊は結界にもなるわね)
金堂は、一段と高く土を盛って建てられています。
そのため、回廊は金堂に向かって高くなるように、斜めに作ってあります(右が金堂跡)。写真からは、わかりづらいかな。
回廊などの下に敷いてあるのは、「 塼(せん)」といって、灰黒色の煉瓦です。石の代わりに敷いてあります。
なぜ「 塼」をわざわざ作って石の代わりにしたかというと、「千葉には石がなかった」からだそうです。
この礎石は3tもあり、50㎞も先にある鋸山から運ばれたようです。鋸山の石は、金谷石といって昭和60年まで採掘されていました。今でもその跡が残っています。
「千葉には石がなかった」とは、「上総にはなかった」ってことでしょうかね?鋸山は「上総」と「安房」の境目あたり。もっと突っ込んで聞いてみればよかったと思ってます。
銅灯篭
こんなのがキラキラしていたら、当時の人は腰ぬかしちゃいますね(笑)
この時代、仏教は国の支配下にありました。国と皇室の安泰を祈るためのもので、庶民には程遠いものでした。
庶民はまだ土間に直に藁をしいて、竪穴式住居に暮らしていました。そこへこんな壮大な物が建ったんですから、度肝を抜かれたと思います。
史跡には、木がたくさん植えられています。この史跡から出土された木々と同じ種類を植えてあるんだそうです。エノキ・ミズキ・タブノキなどがありました。
20分の映像解説や、解説員の説明、じっくり観ようと思ったら2時間じゃ足りませんでした。
すぐ近くには、国分寺跡や王賜銘鉄剣が出土した稲荷台古墳、それに市原市埋蔵文化財調査センターもあるから、もう一度、イヤ2度くらい行かないとね。
上総国分尼寺ジオラマ
ジオラマは手前が南・奥が北になっています。ですが、これグググッと回転するんですよ!
そして目の前のカーテンが開くと、復元された国分尼寺の回廊が出現するのです!!
なんと、模型と復元された建物が、同じ角度から見られるのです
すごいね~、すごいね~、すごいね~市原 ヽ(*´∀`)ノ キャッホーイ!!
キャッホーイ!!と感じた方は、ぜひ史跡上総国分尼寺跡展示館へ行ってください!