考えすぎ -4ページ目

因果応報

身近な人に、辛辣な言葉を浴びせ続けてきた。
私なりの信頼の証でもありながら、藁にも縋る思いで
相手をして頂いたかたがたには都度とても大変な心労をおかけしてきた。

因果応報。

最近、辛辣な言葉を受け取ることが増えてきた。
以前は耳を閉ざしていたような言葉も、(まだ、その場では身構えてしまう時が多いものの)その奥にある魂の声に耳を澄ますことができるようにもなってきたような気がする。

ずっと胸をお借りする一方だった。
これからは少しずつ貸す側になれるかもしれない。
そう思うと、少しうれしい。
そう思えることが、我ながら有り難い。

いつも見守って頂きありがとうございます。

尽くしたい

人生を踊り尽くしたい
細胞レベルで
生活を通して
命を燃やし尽くしたい

統計学的な観点の限界

『もし世界が100人の村だったら』。

統計学的な観点から人類社会についての思考実験を提示して問題提起した、言わずと知れた良書だけれども、

当然ながら、統計学的な観点だけで物事の“すべて”をきちんと認識できるわけではないし、

この見方だけに特化してしまうと、世界に対する認識を矮小化してしまうことになる。

おそらく、このことは著者自身がもっとも熟知されていることだろうと思う。


しかし世間では、ひとたびインパクトのある視点が提示されると、とかく持ち上げられ神格化されやすい。

そうしたほうが扱いやすくなるからだろう。

今日の資本主義経済におけるビジネスシーンにおいて、その傾向が顕著に見られる。

真っ当で冷静な提言をしていても、それが“神格化”されてしまうと、

当初、発信者が意図した本来の内容が伝わりにくくなるばかりか、むしろ尾ヒレのほうが主体のようになって広く認識されるようになり、社会的に実体化していく。


ブッダの最大の誤算は、自身の死後、多くの人々から“神格化”されてしまったことなのではないかと思う。

誤算、と言ってもブッダの死後のことだから、別にブッダ自身それを気に留めているわけでもなかったかもしれないけれども。


情報伝達の高速化が著しい現代社会においては特に、

「印象」とか「雰囲気」に呑まれた判断が増えやすい。

そういう状況の中、慎重に思考し感覚したことを発信する上で、もっとも警戒するべきなのは

“神格化”されてしまうことかもしれない。

まさか自分が、と大抵の人は思うだろうけど(私もそう思っているけど)、

もし仮に、ひとたび“神格化”の流れが始まってしまうと、これを覆すことは並大抵の努力では難しくなる。


現に、キリスト教圏においても仏教圏においても、

数々の歴史的事実の中で、繰り返し示されてきた通りである。

「求め」に対する姿勢と「誘い」に対する姿勢

求めには応じるし、なるべく応えたいけど、

誘いには乗りたくない。

お金は補助輪

「お金で幸せを手に入れることはできないが、不幸を減らすことならできる」

・・・ある本に書かれていた言葉。

現実を冷静に捉えた金言だ。


不幸が重なっていては、幸せも遠のいてしまう。

だから、お金があるだけでは幸せになれるわけではないが、

不幸を減らす、という意味において間接的に幸せに大きく貢献していることも事実。

お金に対する認識として、このバランス感覚はとても大切だと思う。


お金は、言わば(自転車等で言うところの)補助輪。

補助輪がたくさんあれば、転ばずに済む。

しかし、お金に依存し過ぎて補助輪のみで走るようになったら、

もはや自転車ではなくなる。

本当の幸せ(例えば自転車で颯爽と走ること)は、補助輪を外したその先にある。


だからと言って、補助輪が要らないわけではない。

実際、もし補助輪が存在しなかったら、

自転車に乗れる人の人数も限られてしまっていたことだろうし、

補助輪を付けた状態で自転車に乗ることを疑似体験することもできない。


お金はお金で、使いようによっては極めて有用で役に立つのは事実。

(何事にも言えることだが)極端に依存することがいけないのであって、

お金の本質を見極めた上で、有効活用することによってこそ

(お金自身にとっても)お金の本分を全うできるのだ。

お金の無駄遣いをしてはいけないのは、

資源の無駄遣いをしてはいけないのと同じ道理である。

人生の豊かさ

人生全体に関わるような重要なある事柄について、もし確信があれば、

もう他人からの評価は気にならなくなる。

そこに留まるよりも、確信に基づいて進んでいく気持ちのほうが遥かに上回ってしまうから。


例えば、愛とか、理想とか、探究心とか。

周囲の制止を振り切って、その極めて個人的な道のりを走り抜けた先人たちのエピソードが

今も伝説となって語り継がれている。

人として、とても褒められたものではなかったかもしれない。

けれども、そのエピソードは、昔も今も人々を魅了して止まない。


私たちの中にも、少なからずその血が流れている。

時に、それは狂気と呼ばれることもあれば、奇跡と呼ばれることもあるが、

その評価は、あくまでも他人からのもの。

自分ではわからない。


狂気と呼ばれることを怖れて、ずっと隠れて一生暮らしていくのか、

それとも、一縷の望みに己の人生全体を賭け、

実現するかどうかもわからない奇跡に辿り着くための一歩を積み重ねていくのか。

どちらのほうが幸せかなんて、とても言えないし、わからない。


ただ、人は時々、抗い難い想いに押し出されるようにして

狂気とも奇跡ともつかない一歩を踏み出してしまうことがある。

そこでハッと我に返って引き返すのか、それとも、そのまま進むのか。

その選択も本人次第。

どれがいいとは一概に言えない。


どの選択をするにせよ、

そもそも多様な選択肢がある、ということ自体が、豊かさの現れなのだから。


物質は「気体」「液体」「固体」だけではない

「気体」「液体」「固体」という分類の仕方に

果たして本質的な意味があるのだろうか。

確かに、一定以上の密度が加わった時、劇的に様相を変化させる現象(=相転移)は起きているし、

その前と後とでは全体的な振る舞いかたは大きく違ってくる。


しかし、そういう物性の変化は、何も「気体」「液体」「固体」に限ったことではない。

大地震を引き起こすきっかけとも言われる「プレート」は地上の私たちの感覚からすると「固体」だけれども、

地中深くの(地上では想像もつかない別世界の)重力と質量が常に充満している状況下では

地上の私たちの感覚で言うところの液体のような振る舞いをしているという。

巨大な体積と超高密度の流動体、それが「プレート」の実態だと聞く。


そうだとすれば、「プレート」は、

私たちの感覚で言うところの「液体」でも「固体」でもない(もちろん「気体」でもない)。

しかし、よく考えてみれば、

空気中を落下して水面に激突すれば、コンクリートに激突したのと同じ衝撃が生じるというし、

海鳥は時々、海に飛び込んでは餌を獲り、

ドジョウは水中を泳ぎながら水底の土壌(!)を吸い込んで餌を獲るのだから、

結局、ある一定の圧力や密度の境界面の両側で呼び名が変わっているだけに過ぎず、実は全体がすべて繋がっているのだ。


そして、こうした境界面は、

まるでマトリョーシカのように繰り返し現れる。

それが実態なのではないのだろうか。


延々と断続的に続く境界面のうち、私たちの日頃の馴染み深い現象の部分だけを切り取って

「気体」「液体」「固体」と名付けているだけに過ぎない。

そう考えるのが妥当のような気がしている。

健全な関係性

近づき過ぎると関係性は壊れる。

地上の万物のエネルギー源である、あの太陽でさえ

近づき過ぎると、すべてを灼き尽くしてしまうのだから。


生物も量子も精神も皆、孤独である。

孤独であることは、健全の証でもあるのだ。

プロセスこそ本質

良質なプロセスのために、良質な目標の設定がある。

もっとも大事なのは結果よりもプロセスのほう。
でも、それを意識して良質な目標を設定しようとすると
その打算的な発想が不純なため、結果的に良質なプロセスにならない。
もちろん良質な目標設定にもならない。

目標設定に拘る必要なんかない。ただ必要と感じることを達成しようとすればいいんだ。


人生は、決して遡ってやり直すことができない一回きりの冒険だから。

開放系の世界を生きている

私たちが過ごしている世界は、(閉鎖系でも孤立系でもなく)基本的に開放系の空間です。

しかし、開放系をそのまま認識することは困難です。

脳の仕組みは、それを省略して捉えることに成功しています。

そうして捉えられた世界は、大抵うまく閉鎖系あるいは孤立系に変換されています。


この変換を厳密かつ技術的に行う学問があります。

数学です。

数学における開放系の典型としてよく知られている「無限」。

そのままでは扱いにくいので、記号を充てて置き換えることによって数学的操作を可能にしています。

数学は、こうした“置き換え”を得意としていて、

“置き換え”のプロフェッショナルだと言っても過言ではありません(それを目的としている学問ではないのですが、“置き換え”の技術が欠かせないため自然と磨かれてしまうのです)。


数学は、もともと開放系である対象を便宜上、閉鎖系あるいは孤立系に置き換えていることを明確に認識し続けていますから、

それらを途中でごっちゃにしたりすることはありません。

しかし、脳の場合は違います。

「開放系の対象であることを便宜上、閉鎖系あるいは孤立系に置き換えている」と認識し続けている状態は、

実質的に開放系を認識し続けようとしていることとあまり変わらないため、

脳にとっての負荷が大き過ぎてしまいます。

そこで脳は、さらに「忘れる」という選択を採ります。


もともと置き換え可能な対象だから、置き換えたまま忘れても(証明問題を解くのでもない限り)支障はありません。

置き換えたことをいつまでも覚えているために消耗するエネルギーは、日常生活を送る上では余分になってしまうので、脳は忘れようとします。

(その代わり、後々忘れて困ることがないように人類は記録という方法を採って開発し、その技術を高め続けてきたのだと思います。)

生きる術、本能的なサバイバル術の一環です。


しかし、それが仇となって、物事の本質をうまく認識できないまま

「うまく認識できていない」ということに気付くことも難しくしています。

見ようによっては、脳の働きは言わば諸刃の剣、

自分を騙しながら生き延びようとする極めて複雑でトリッキーな高等テクニックを常に行使しています。


案外ドライで現実的なのは、脳のほうなのかもしれません。

その脳も、求めれば数学を理解することもします。実に柔軟で強かな器官です。

身体を壊したり自死に追い込んでしまうようなことになってでも、最大限、求めに応じようとして働く器官、

それが脳なのだと思います。


何を求めるか。

それは私たちに委ねられています。

だからこそ、慎重かつ大胆に、のびのびと、

本当に求めることを求めていきましょう。

脳は(身体も)、ずっとそれを待っています。きっと今も。