砂粒の宇宙 | 考えすぎ

砂粒の宇宙

よく晴れた日の砂粒は、
太陽光の反射で複雑な精彩を放ち、
どこまでも深く、果てしなく広がって見える。


それは、砂場の砂だけに限らない。
路肩の排水溝の脇の、僅かな吹き溜まりの砂でさえ、
決して眺め尽くすことのできない深淵を湛えていて、
決して見飽きることがない。


よく晴れた日の青天の奥には、
どこまでも深く、果てしない宇宙が実際に広がっているにも関わらず、
青天はどこまでも単調で、淡々と平べったく見える。
まるで世界の深淵を覆い隠しているかのようだ。



どうやら人間の知覚は、世界の在り方をそのまま反映していないらしい。
「世界の本当の姿は、自分が見知っている姿とは違うのだ。」
・・・この認識が、世界の本当の姿を探し始めるきっかけとなり、
一方では宗教を生み、一方では自然科学を生み出した。


最終的な到達点は、いまだに見出されていない。


そもそも、最終的な到達点などあるのだろうか?
自分の知覚の誤りを評価するのも自分。
世界の本当の姿を判断するのも自分。




まず大切なのは、
誤りかもしれないその知覚が、この自分のかけがえのない人生を彩っていることと、
到達する見込みのないその探究心が、紛れもない自分の欲求である、
ということ。


砂粒に宇宙を、青天に普遍を。
全身で世界を感じて生きる、限りある時間に感謝を。
この一度きりの旅に承認を与えてくれる、すべての魂と存在に
心からの深謝を。


お蔭様で、今日も僕は生きています。
いつも有難うございます。
いつも生かされる一方で申し訳ございません。
こんな僕ですが、それでも僕は唯一無二のこの時間を生きていきたいのです。
僕は、皆様と共に精一杯、生きていくつもりです。
どうか、限られた時間ではありますが、これからもよろしくお願い致します。