僕は、現にサラリーマンだ。 | 考えすぎ

僕は、現にサラリーマンだ。

国家を維持し、運営していくために法律が必要なのは、わかる。
法治国家の中では、人々の多くが法人組織の下で働く道を選ぶことも、わかる。
僕は、現にサラリーマンだ。


しかし、「これですべて良し」とは思わない。
例えば(ほんの一例だが)、
猫も杓子も、過密ダイヤの通勤列車に朝夕2回乗り込んでクタクタになりながら職場に向かっている。
その光景は、一歩外から眺めれば異様だ。


「そう思うなら、なぜサラリーマンを続けているのだ。矛盾している。」
と言う人がいるかもしれない。
しかし、そのような人には、逆に問い返したい。
「生きることに疑問を感じている人に向かって、あなたは『死ね』と言うのか」と。




人間、誰もがバイタリティーに満ち満ちているわけではない。
ほとんどの人が、英雄でも仙人でもない、凡人だ。
それでも、まずは生きていかなければならない。
答えが出なくとも、迷いながらでも、
目の前に与えられている限られた選択肢の中から「とりあえず」選び、生きていかなければ
何も始まらないし、次に繋げていけない。


「とりあえず」の選択をしている状態なんて、みっともないかもしれない。
情けないことかもしれない。
しかし、考えてもいけないのだろうか。
発言することさえ許されないのだろうか。
「この生き方は間違っている」と思いながらも、その生き方を当面続けざるを得ない状況、
なんて、普通、山ほどあるのが当たり前ではないのだろうか。


経済的に豊かな国に生まれた者は、
そうでない国に生まれた者に対して、何も言う権利がないのだろうか。
・・・確かに、もともと余裕のある環境で育ってきた人が、
その環境の恩恵で得た知識や技能を武器に、無自覚のうちに"高み"から発言してしまう、
という例は決して少なくない。
そのような人が反感を買ってしまうのも、無理のない話だと思う。
しかしながら、そのような人に「そもそも発言権がない」わけではない。
言論の自由が、既成事実によって縛られてしまうようなことは、決してあってはならないはずだ。




僕がサラリーマンをしているのは、まずは自分と家族の生活のためだ。
今日や明日を生きられない状態のまま、理想だけをぶちあげても勝ち目はない。
だから、まずは生きていかなければならない。


もちろん、それだけではない。
仕事自体にもやりがいを感じているし、
自分に「果たすべき役割」がある、ということに生きがいも感じている。
つまり、僕は、
自分がサラリーマンでいる現状を、ごく自然な意味で、肯定している。


それはその通りなのだが、
一方で、「これですべて良し」とは思っていない。全然そう思わない。
もっと別の社会の在り方が実現すれば、
サラリーマン社会なんてなくなったほうが自然だ、と本気で思っている。
でも、今の僕はサラリーマンでいる。
・・・矛盾だらけかもしれないが、
一人の人間の生き方として、おかしいことでも何でもないと思う。




高校卒業の時の担任教師が、
「反社会的であれ。ただし、非社会的にはなるな。」
と言っていた。
僕が高校生だった当時は、
「先生がきわどいことを言っているな」と感じていたが、
今思えば、つくづく言い得て妙だと思う。


反社会的だからといって、非社会的にならなければいけないわけではない。
むしろ、社会的に生きながら、
しかし現状に甘んじることなく、(現状の社会に対しては)反社会的になるべきなのだ。