記憶と光景 | 考えすぎ

記憶と光景

自宅と会社の間の、行き帰りの光景。
初めは道すらもわからなくて、新鮮そのものだったはず。


いつから慣れてしまったのだろう。
いつから飽きてしまうのだろう。
初めて行く場所なら、見慣れているはずの人々や車さえ、
目新しく新鮮に映るのに。


自動車だって、本当はすごく奇妙だよ。
当たり前のように思っているかもしれないけど、
道の真ん中を、人を乗せた鉄の箱が、かなりの速さで滑っていくんだ。
それも1つだけじゃないよ。次々とね。
赤や青のランプに従って、止まったり動いたりしながら、ちゃんと並んでね。
町全体が、まるで工場みたいじゃないか。


・・・でも、普段は、そんなことも思わずに、
単なる見慣れた光景として、「あ、車だ」としか思わず、
車が走っている場所はまるで障害物である(=道ではない)かのように考え、
定められた歩行者用の道だけを“道”と認識して、
何の疑問も持たずにそこを歩いている。




光景が、ある程度、記憶の中に納まると、
その光景は、意識に上らなくなってしまう。


僕は、
人の根本的な原動力は、理性や論理よりも、感性や感覚だと思う。
でも、感性や感覚が鈍ってしまった時、
理性や論理が警鐘を鳴らせば、そこに新鮮さを取り戻すことができるのではないかと思う。
・・・少なくとも僕の場合、そうしてきたような気がする。


一時期、僕が、
「根本的なのは感性よりも理性だ」
と思い込んでいたのも、
僕がそうやって、大事な局面で、理性で感性を呼び覚ましてきていたからかもしれない。
根本的なものは感性だけれども、
理性は、感性に働きかける大きな力を持っている、・・・と言ったほうがたぶん正しい。




今日、僕は、
「車だって奇妙なものじゃないか」
と、理性に呼びかけられ、
いつも見慣れているはずの町並みが、とても不思議でエキサイティングな光景に見えた。