5月25日の「爆笑問題のニッポンの教養 」。

今回は世界的な社会心理学者、山岸俊男(北海道大学大学院教授)を爆笑問題の2人が訪ねた。



山岸氏に言わせると日本人の集団意識と言うのは周りの人がお互いに見張っていることによって成り立っている

の中に集団主義があるのではなく、社会の仕組みの中にある。

お互いを監視して罰しあうような仕組みを作ってしまえば集団主義的な行動をとる



となると縛っている仕組みがなくなってしまったら、どうなってしまうのか?という問題が出てきます。

また縛っている仕組みが働かない場合はどうなってしまうのか?と言う問題もありそうです。

説教をするだけじゃダメだということを山岸氏は繰り返し言っていましたが、ガーガー怒鳴りちらしても効果はないということですね。

ガーガー怒鳴り散らすことに効果があるとすれば、それ自体が罰になっているからでしょう。

たとえば組織内でとんでもないことをしでかし、上司に外に聞こえるほど怒鳴られれば、うわさが広まるかもしれない。周りにバカにされたような白い目で見られるかもしれない。そういうことでうまく集団主義が機能することはありえます。

しかし、「そんなことは関係ないね。周りの目なんて関係ないね」って言う人がいたらどうでしょうか?

そういう人こそ日本の組織で言うところの「非常識」なのかもしれません。

つまり「周りの監視を何ともも思わない」=「非常識」であると。

とった行動そのこと自体よりも従来の日本人の言っていた非常識は監視機能が働かない相手に向かって使っていたのかもしれません。

そのような非常識人には村八分と言う厳しい制裁がありました。(今でもある?)

昔の村八分は単なる無視というよりも、世界が閉じられた共同体でしたから、その人の生存が危うくなることを意味します。

村八分と言う「集団監視→罰」の仕組みによって日本の集団主義は守られていたと言えそうです。

つまりそれはの道徳ではないと。

山岸氏は小学校のそうじ当番の例で言っていますが、「誰が好きでそうじ当番をやるか」と言う話。

先生が見張っているからやるんだと。それを美徳化して海外で話すのは「おかしい」と言っています。





さて、ここで話をガラッと変えて太田氏の話の中から。

太田光氏が「自己犠牲は自己愛が強くないとできない」とおっしゃっています。自己愛とは「この人を救った自分がいい」と言う気持ちのことだそうです。

「~自分がいい」の中の~の部分に何を持ってこれるかがその人の持ち味になりそうな気がします。

つまり「~をしている(達成した)自分がいい」と思えるからこそ、そのことに没頭できるわけです。



毎日休まずに仕事をしている自分がいい

公益のために仕事している自分がいい

他人を助けている自分がいい

家族優先で生活している自分がいい

愛する彼女(彼氏)のことを毎日考えている自分がいい

同期で一番最初に係長になった自分がいい



等々



「~」の部分に何を持ってくるのか

これは脳科学者茂木健一郎氏 風に言えば「何をすればドーパミンが出てくるか?」と言うことなのかもしれません。

ドーパミンと言うのは嬉しいことがあると出てくる脳内物質です。

「~をしている自分がいい」と「~をするとドーパミンが出る」の~の部分はほぼイコールであるような気がします。

この「~」がその人にとってどのようなことなのか?

その点がその人の資質を決める大きなポイントの1つなのかもしれません。