猜疑心を無くす
私のところに来る人で、最初から猜疑心丸出しの人が居ます。何しろ疑ってかかるのですね。何でも疑る心の癖を持っている人が居るものです。まあ、これほど可哀想な人生はありませんね。疑るくらいなら来なければいいのに、どうしても気になるから来るのです。このような人は多分普段でも何でも疑って、疑って暮らしているのですね。私はこの心の癖を持っている人は絶対幸せになれないことをお約束します。
何故疑るかというと、まず自分に真偽を見分けるだけの自信が無い。でも、自分は守りたい。その一心で疑るのです。肝っ玉が小さいというか、情け無いというか、疑る分だけ自分のチャンスを逃していることに気づかないのですね。このような人が老人になった時に「自分の物を盗られる」という被害妄想と恐怖心の中で暮らしていくことになるのでしょう。
真偽を見分ける目が無いから、どうしても名のある権威みたいなものに頼るようになります。しかし、世の中で権威といわれるものほどいい加減なものもありません。こんなものに価値を置く人間は、多くの場合、地位や名声、権力で自分や他人の価値を計り、人にレッテルを張ってランク付けをしようとする価値観なので、立派に見せてはいますが、まあ大した心を持った人間は居ないのですね。
しかし、猜疑心を持った人は自分に真偽を見極める目が無いから、このような権威といわれる人間や組織を頼るのです。そして、案の定自分が期待する結果は得られないとなると、益々何を信用していいのか分からなくなり、猜疑心がもっと強くなっていくのです。そうなると、この世の中で生きていること自体が地獄でしょうね。
猜疑心を無くすのにはちょっとした努力が要ります。自分の猜疑心で守ろうとしているのはちっぽけな自分という自我です。この自我を小さくする努力をするしかないのです。どうしても疑る癖がある人は、坐禅でもして自分の自我を小さくするしか自分の心が作り出す地獄からは逃れられないでしょう。坐禅をすれば真偽を見極める目も養われます。禅以外にも、自我を小さくし真偽を見極める目を養える方法があるのならそれをしてください。
私は相手がどの程度の心の境涯を持っている人間か見る癖が付いていますから、疑る前に分かっているというか、疑る必要が余りありません。いくら相手から地位や名声、権威、権力を見せてもらっても、そんなものには全く価値を置いていないので、それに惑わされる必要もありません。一体相手がどの程度の心の境涯、度量を持っている人間なのかだけが私の判断基準です。何にも疑る必要は無いのです。相手と少し話せば分かります。だから、そういう人達はそんな勲章みたいなもので私にビビッて欲しいのに、私がビビらないから大変困るのですね。時々、相手が可哀想になってビビッてあげたりします。そうすると本人は喜びますね。
疑る必要が無いというのは楽ですよ。毎日、相手の心に合わせて対応しているだけです。疑って日々過ごすのは大変エネルギーを消耗し、ストレスを感じますから、自律神経を乱して病気になりやすくなります。心の病にもなるでしょうね。猜疑心がある人は己が未熟であると思ったほうが良いでしょう。未熟なら未熟で無いようにしたら良いだけなので、正しい心のトレーニングをすれば良いのですね。
疑って人生を過ごすほどつまらない人生はありません。疑っている閑があれば自分の心を鍛えましょうよ。信じていて裏切られても「それがどうした。」です。相手を非難する前に己の未熟さを反省すべきですね。信じて過ごせる人生の方が疑る人生より何万倍も幸せなのですよ。
合掌
仏光
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