石原慎太郎「聖餐」 | 木島亭年代記

木島亭年代記

東北在住。
最近は映画も見てなきゃ本も読んでない。
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【雑感】


ちょっと前に外道坊主姐さんからいただいた本。


作者は現東京都知事で、さらには芥川賞の選考委員であらせられる石原慎太郎大先生である。短編で、出版されたのは1999年。その年はたしか都知事に当選した年あたりだったように思われる。石原慎太郎に1票を投じた人のうちはたしてどのくらいがこれを読んだかは知らないが、これを読んでも彼ら彼女らは1票投じたのだろうか。


大阪で「ワイルドバンチ」というブックカフェに行ったのだが、そこで外道坊主姐さんと店主が本作について盛り上がっていた。私もさっさと読んどけばよかたっと後悔したものだ。店主さんは石原慎太郎の政治的主張には同意しないけど、彼の小説――特に短編は凄い(大意)と言っていた。なるほど、実際に読んでみると、これは結構凄い。いささか主人公たちの言ってることややってることが短絡的という気もしないでもないが、“見世物”

の本質を捉えている。と言うよりは“見世物に興じる我々観客”の意識を捉えている。石原慎太郎が人気があるのはパフォーマンスの部分が大きいだろう。それって結局“見世物”の本質を利用しているってことである。一見、都知事とはむずびつきにくい内容だし、政治家としてやってることと小説家として書いていることに隔たりがあると言うようにも思われるが、その実、石原老人の価値観や人間的資質という面では表裏一体なのかもしれない。




【あらすじ】


主人公は落ちぶれた元映画監督・健と言う男で、今では奇妙な風俗店を経営している。どのくらい奇妙かと言うと、半透明のビニールに裸の女を入れ、くねくねと踊らせる。客たちはそれを見て楽しむ。ビニールに浮きあがった女性の肉体に興奮するというのが主旨だ。その前にやっていたのは棺桶の中に客が入り、顔と股間を女たちにもてあそばれるというもので、まあ実際にやってもそれほど受けそうにはないが、活字の上ではそれなりにキャッチーな変態プレイである。定期的に出し物を替えるのは、単に警察の目が厳しいからだ。評判を呼び、他の店が真似をすると、お上の目がきつくなる。結果潰されるのである。


健は、かつて自分が手がけていた映画の観客と今現在行っているショウとの観客とがそれぞれの作品を見て手にする感動が本質的に違うとは思わない。結局のところそれらは同じものだと考える。その一方で、今やっていることは所詮手品みたいなもので、自分が本当に願っている物とはずれていると思っている。客たちが気づいていなくとも実際には本当に願っているものと完全に一致しうる何かがあるはずだと考えていて、いつかそれを実現しようと心の底で思っているのだ。


ある日仲間の一人が警察から呼び出しをくらう。ある1冊の裏本について聴きたいという内容の呼び出しで、健たちは厭な予感にとらわれる。あまりいい話ではないだろう。仲間の一人で沖山と言う男が一人で話を聞きに行くことになる。話の内容はH県の警察協力会の会長であり、県の医師会の会長でもある男がその裏本の増刷している分をすべて買い取るというものだ。というのもその男が、東京の会合に行った際に土産で買ったその裏本に実の娘が股をおっぴろげているのを見つけてしまったからで、これ以上人目に触れないようにもみ消そうと躍起になっているのである。男は警察に協力を依頼し、警察は健たちと交渉することにしたということである。警察に大きな借りができたし、損もないと言うので喜んで話に乗った健たちであったが、予期せぬ展開がその先に待っていた。


突然警察につかまり、殴られ、尋問を受ける健たちは、そこで予想外の話をつきつけられる。どうやらくだんの裏本を作ったカメラマン藤野が再び例の女をつかって裏本を作ったというのだ。警察は完全にメンツをつぶされた格好となり、健たちに対して激しい怒りを募らせていたのだ。だが、健たちからしてみれば何の話か分らない。それも当然でカメラマンがやくざがらみで健たちとは無関係にやったことだったからだ。けれどもメンツをつぶされた警察はそのまま健たちを起訴し、判決は執行猶予つきの有罪判決になる。そしてほとぼりが冷め、健たちが再び例の風俗を始めようとすると刑事がやってきて釘を刺す。少なくとも執行猶予のある間は何もするな。お前らが何かを始めたらどうやってもぶっ潰して、牢獄にぶち込んでやる。刑事の言葉は脅しではなく、事実そのものだ。


その不条理な現実に健は憤る。このままじゃ終われない。そこで健はある思いつきを実行することにする。健は残った唯一の仲間大津にこう言う。


奴らが言う罪だのなんだのを、この俺たち神様が映像の中で超越して見せつくてやればいいんだ。それ以上の仕返しがあるか奴らは腰を抜かすだろう、クレジットタイトルもキャストもないまま出回ってしまうプリントの1本1本が奴らの偽善、やつらの嘘を引っぺがすことになるんだ」


大津は健の希望通りの人材を探す。それは、この映画において一番重要なキャスティングであった。大津の見つけてきた男は、精神に異常があり、かつて殺人を犯し、病気の為に無罪になっていた。定職につけないたちで金に困っている。今回のプロジェクトに対して最も理想的と言える人物だ。とはいえ、プロジェクトの内容が内容なので、健たちはそうそう簡単に彼にオファーを出せない。失敗は許されない。健はその男の働くバーに通い、また、彼が起こした事件を調べる。当時の精神科医や刑事に会う。それによって確信は深まる。この映画に必要なのはこの男だと。


続いて大津は女のキャストを見つけてくる。それはくだんの裏本の女である。これ以上のキャストはいないだろうと大津は言う。因縁の決着としてはできすぎだろう――と。


そして始まる。世の中の偽善を引っぺがす強烈な映画の撮影が・・・


【感想】


ところで、スナッフと言うのは娯楽目的で流通された実際の殺人を収めたフィルムのことである。まあ別にフィルムではなくてもいいんだけど。現実にはこの手の物が流通しえるかと言うとあまりしないだろう。まず、そもそも、そう言ったものを見たいと思う人がそれほど多くはないというのがある。結局のところ、映画やドラマが面白いのはカット割りや編集などで工夫を凝らしているから面白く見られる訳で単にだらだらと撮った映像を見ても退屈なだけだし、かといってこの手のものを実際に映像とした場合、カット割りやら編集やらはできないのである。カットを割るにも撮り直しは利かないし、編集をしたらもはやそれが実際の殺人を映し出した物かどうかが怪しくなる。それから、もちろん、流通させるにも堂々とはできないから限られた客層に高く売りつけることになる。これはこれで売る相手を見極めないとすぐに警察に嗅ぎつけられて「終わり」となる。裏ビデオなんかとは違ってそれに伴う刑罰も重いだろうから、割に合わない。ハイリスク、ローリターンの可能性が高い。そして、最近の技術レベルを考慮すると実際の殺人なのか、作られた映像なのか、見分けがつかない。見分けがつかないのに高額を支払うンは意味があるのか。とはいえ、それでもやるっていう人がいても不思議ではないのも事実で、どこかの国で流行って出回っているとか言ないとかという噂は耳にする。


本作ではスナッフがとびきり悪意に満ちたものと描かれるがはたしてそれほどのものなのかと言う気もしないでもない。小説という枠組みの中ではそれは成立するが現実的には健たちが考えているような結果は得られないかもしれない。とはいえ、悪意というのはその創作物自体に何が描かれているかではなく、それを作った人間それ自体にある訳で、結果より過程に宿る。その点本作の主人公たちは、間違いなく純粋な意味での悪意の中で、作品を作り上げている。小説は作品の撮影とその後始末を終えた所で終わる。その結果については触れられない。故にギリギリのところで自己陶酔のバカバカしさに陥っていないと言えるかもしれない。