ピート・ドクター&ボブ・ピーターソン「カールじいさんの空飛ぶ家(2009)」 | 木島亭年代記

木島亭年代記

東北在住。
最近は映画も見てなきゃ本も読んでない。
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愛した妻を失った老いた男はそのまま悲しみの淵で死を迎えることになるだろう。亡き妻との思い出の詰まった家は、周囲の開発から取り残され、一日中工事の音が鳴り響いている。黒服の男は老人の家を、いや土地を狙っている。周りの土地を買い取った今、そこだけ黴の生えたような古い家があると目障りなのだ。しかし老人は頑なに家を売るのを拒んだ。その家は彼が妻と最初に出会った思い出の家であり、そして二人が苦楽を共にしてきた場所なんだ。妻がいなくなった今、彼にはもうその家しかない。子供もいない。友人もいない。気力もなくなり、彼はつえをつき、階段を下りるときは電動式のイスに乗る(ビリー・ワイルダーの「情婦」にでてくるあれだ)。人は目的を失った時に死へ向かう。ゆっくりと首を絞められるように、毎日が彼を死へ誘い込む。そんな時に一人の少年が訊ねてくる。アジア系のその少年はラッセルという。ラッセルは老人ーーカールに言う。


「なにかお手伝いすることはありますか?」


カールはないと即答する。彼はたとえ子供であろうと、あら売る他人を拒絶する。何せ死への階段を一歩一歩降りている真っ最中だ。人とかかわりあうことはエネルギーを要するのだ。カールにもうエネルギーはない。人生の大半は傷ついたり、失ったり、無くしたりすることに終始する。楽しいだけの人生はないし、むしろ楽しくないのが人生だ。厳しい生存競争は、我々の心や体をむしばみ続ける。けれども多くの人々は生き続ける。なぜか。それはそういった負の要素を圧倒する何か素晴らしいことが時折訪れるからだ。おそらくそれはそれほど頻繁にはない。最初は祝福される素晴らしいことも、いつの間にか日常のふつうの光景になりさがる。ドストエフスキが言うように、あるいはV・E・フランクルがそれを引用したように、人間というのはあらゆる物に慣れてしまうのだ。だが、それでもその正の要素はイメージとして刻まれる。そのイメージが負の要素に負け始めると人は病にかかるのだろう。カールじいさんがそうであるように。カールに拒絶されるラッセルだが、少年はあきらめない。少年はボーイスカウトでバッジを集めている。それは様々なテーマをクリアしたときに与えられる勲章だ。ラッセルはたくさんのバッジをつけている。彼がほしいのは「老人のお手伝い」をすることで与えられるバッジだ。それがそろえば彼はランクが一つが上がるのだ。しかし、ラッセルは上昇志向の固まりのような人間ではない。なぜか彼がバッジを、昇進を望むのか。それは彼が、それによっていなくなった父親との絆を呼び戻せると信じているからだ。彼の両親は離婚していて、ラッセルは母親と住んでいる。父親は遠くに住んでいいて、ラッセルとはほとんど会わない。ラッセルは昇進式にはきっと父親が帰ってきてくれると信じている。否、願っていると言った方がいいだろう。おそらく少年は心の底では、たぶん父親が自分のためにやってきてくれるとは思っていない。それでもすがるしかないのだ。ラッセルはカールじいさんに食らいつく。カールはすでに厭な老人になっていた。老人はでっち上げた難題を彼に投げかける。都会にいる訳のない(実在するかもわからない)鳥がうるさいからそれを捕まえてくれと命じるのだ。純粋なラッセルは喜んでそれを了承し、鳥を探しに行く。

 一方カールじいさんは工事関係者が彼の思い出の詰まった郵便受けを誤って倒してしまったのをみて飛んでいく。一悶着が起こり、老人はついつい持っていた杖で若い関係者の頭を殴ってしまう。殴られた男は額から血を流す。たとえ本当は善人である老人の振るった暴力でさえも、結果としてそこには暴力の醜悪さが浮き彫りになる。そして老人は追い込まれる。精神的にも、立場的にも。黒服の男はそれに目を付け老人を危険人物と訴え、老人ホームに強制的に入れるように画策する。裁判が行われ、老人のホーム行きは決定する。

 カールにはもはや家しかない。彼の執着は家にある。それがすべてだ。それを盗られることは彼には耐えがたいのだ。そして彼はある決断をする。尋常じゃない執着はファンタジーの世界を呼び込む。彼は家に膨大な数の風船をつける。

 そして家は、飛び立つ。彼が幼少の時分に、妻と共有した夢に向かって。


飛び立った家だったが、カールには一つ誤算があった。それは家に部外者が一人乗っていたことだ。それは、ラッセルだ。鳥を探していたラッセルは老人の家にいたのだ。宙を舞う家の中でラッセルと老人は向かい合う。老人はラッセルを降ろそうとするが、失敗する。嵐のような曇天が家を襲い、暴風雨に直面した難破船のように飛行家は揺れる。カールは思い出の品を守るため、それらを縛り、嵐が去るのを待つ。気がつくと眠ってしまっていたかーる。目が覚めると少年がいう。


「僕が操縦したんだ」


老人はとにかく少年を地上に降ろそうと家を下降させるのだが、そこはすでに見知らぬ世界であった。殺風景な荒野であり、厳しくそびえ立つ岩々が幾手を阻む。そして霧が晴れるように、不意に姿を表すのは、パラダイスの滝だった。虹がうっすらとかかり、岩山の間から流れ落ちる水。それはカールが、幼少期にあこがれた冒険家が目指した場所である。冒険家はそこから一つの大きな鳥の骨格を持ち帰ったのだが、学会から偽物だと批判され、鳥を生け捕りにして車で帰らないと再び旅にでてそのまま行方不明になっていた。カールは彼にあこがれ、そしてカールの妻もこの冒険家にあこがれていた。二人の夢はパラダイスの滝のすぐそばに暮らすことだったのだ。老人はそのまさに夢の幻影をついに見つけたのだ。思い出の家をつれて。しかし、問題があった。まず、家を浮かばしていた風船がだいぶ割れてしまい、滝まで運べるかどうかは微妙であること。それから、家から落ちてしまい、ろーぷを上れずにいること。カールはろーぷを背負い、自力で家を引き連れて、すぐそこに見えるものの距離としてはかなりある滝へラッセルと向かう。滝へ行くにはジャングルを通る必要があった。二人は家を引っ張りながらジャングルに踏む込む。


一方そのころジャングルではある二種類の生き物が追いかけっこしていた。一匹はカラフルな何かであり、もう一つは首に妙な首輪をはめた三匹の犬だった。奇妙な首輪をつけた三匹は互いに人間の言葉を喋り、ウルトラ警備隊ばりに小型のTV電話で連絡を折り合う。最初、犬ー犬間の言葉を人間語に置き換えているのかと思うのだが、どうやら違っているようだ。と言うのも一匹の犬ーーリーダー格のドーベルマンの声の調子がおかしいのだ。ヘリウムガスを吸ったような、「ワ・レ・ワ・レ・ハ・ウ・チュ・ウ・ジ・ン・だ」とでもいいそうな、極めて機械音じみた得意な声をはっしている。つまり、その首輪につけた装置によって人語を語れる用になっているのだ。そしてドーベルマンのそれは壊れている。間抜けな声を出すとどんなに高圧的でも威厳があっても間抜けに見える。想像してみてほしい。石原慎太郎がアメリカザリガニの片方のようなすっとんきょんな声を出して、ああだこうだ偉そうなことをいっていたら、ほんとに都知事に慣れただろうか。ドーベルマンは偉そうに部下に命令する。しかし間抜けな声のため、部下たちは半ばバカにしている。しかし幾ら声がおかしいからといって本人(本犬?)自体の力が弱まるわけではないので凄まれると、こいつはヤバイ奴だというの思い出して神妙にするのだ。その光景はなかなか滑稽で、そして醜悪だ。さて、その犬っころたちの目的は、ご主人様のためにある鳥を探しているということらしい。そしてあらゆる集団で必ずあることだが、犬の集団でもそうで、必ず爪弾きものがいる。押井守の飼っている犬は、愛犬家の間では有名なバカ犬の種類らしい。「イノセンス」という押井守の映画が公開されたときに、押井氏がそれについて言及していた。この映画を見ていてそれをフット思い出した。というのもその爪弾き犬が多分、その犬・」)の種類なのだ。鈍くさくKYで、間が抜けているが人(犬?)が良い。見た目も確かこんな感じだった。多分同じ犬種なのだろう。その間抜けな犬は、ドーベルマンチームに入れてもらえず、単独行動を余儀なくされるのだが、ハブ等れているという事実を認識していない。極めてノーテンキな犬だ。彼はたまたまカールじいさんいっこうに出会う。そしてカールじいさん一行はその前の段階で犬たちが捜し求めていた鳥をパーティに取り入れていた。カールじいさんは頑迷で、偏狭だ。が、一方でラッセルはあらゆるものに足してフラットだ。突然現れた怪鳥に彼はチョコレートをあげて仲良くなる。食べ物をあげた野良猫がなついてついてくるようにその怪鳥もラッセルについてくる。カールはそのよけいな生き物になかなか慣れない。彼は野良猫を拾ってきた子供に親が言う様にに、それを拒絶する。しかし、鳥にはそんなことはお構いなしだ。鳥は二人の後をひたすらついてくる。そして先ほど述べた駄犬ーー名前はダグだーーはたまさかその一行会ったのだ。ダグの目的はもちろんその鳥を捕まえることだが、まあバカ犬だから捕まえるったって大したことはできない。気づくとただ単にカールいっこうにお供する犬っころでしかない。


そして二人と二匹の奇妙な旅路が始まる。迫りくる犬の氏客。その鳥を狙う人物とは一体・・・・物語はいよいよ華僑を迎える。ダグはあまり頭がよろしくないし、単純だからカールじいさんの一行の居場所をドーベルマンに伝える。やがて凶暴な犬に囲まれた一行は彼らのご主人のもとへつれていかれる。っしてカール爺さんがそこで見たものはなんと幼少期にあこがれた英雄だった。あの憧れの探検家がそこにいた。探検家は例の鳥を生け捕りにするまで帰らないと宣言したため、何年も何年もこの辺鄙な土地に取り込まれていたのだ。彼は犬を配下に氏、彼らをしゃべれるようして奴隷のように使って、その世界の王になっていた。まるで「地獄の黙示録」のカーツ大佐のように。損p探検家はまさに亡霊だ。見果てぬ夢にとりつかれた哀れな男だ。彼は名声だけが、プライドだけがすべての生ける屍だ。執念だけを胸に朽ちたミイラ男のような化石だ。呪いを解けば塵に帰るような止まった時間の中を生きる存在であり、そしてカール爺さんの抱えた幻想の象徴だ。


この映画は人生には目的が必要だが、その目的がすべてではないってこと示す。そりゃ小さい頃から後生大事にしている夢は大事だ。誰だっていつかはかなえたい夢がある時期がある。それをおいてなお追い求める姿は美しいし、尊い。だが、それがその人物を縛り付けるようなことになったとき、それは本当に以前のように美しく尊いのだろうか。答えはおそらくノン!だ。夢が時分の悲しみを埋め、新しいことからの逃避となり、むしろ生より死へ向かう要素となったそのときそれは間違いなく”醜悪さ”をまとうことになる。映画の中でカールはまさにかつて輝いて夢をくすみ朽ちた醜悪な幻想へと貶めることになる。それは最愛の妻エリーとの美しき思い出であった筈が、妻の死を受け入れたくない固めの逃避の理由に貶めてしまっている。死者は、死んだその時から永久に死んでいる。そして生き残っているものは本来そこから生き続けなければならないのだ。カール爺さんは、今を生きることより過去を生きることを選択した。引きこもり、他人を拒絶し、過去の遺物にこだわる。それはどれどほど妻の臭いを醸し出していても所詮は物にすぎないのだ。それはエリーという人間ではない。しかし、彼にはそれをイコールエリーとして認識しなければ世界が崩れ落ちるという恐怖しかない。だから、彼は何よりも家そのものを、家の中にある彼女との思いでその物を、彼女の写真を、そして共有した夢に執着するのだ。だが、過去に捕らわれ、今の時分を哀れんでいる様なこの男に本当に幸せな瞬間はあるのだろうか。おそらなくない。そしてエリーだってそんなことは微塵も願っていないだろう。人の死というのは唐突にやってくる暴力的で不条理なものだ。悪いことをした奴から死ぬわけではない。映画の中でカールは幻想の象徴として存在する探検家と向かい合う。なぜか?それは他者ーーたとえばラッセルであり、ダグであり、怪鳥だ。カールは短い旅の中で、新しい出会いに少しずつだが、生を見いだす。それは人生をあきらめた老人が誰かのために生きる目的を見いだし、再生するために重要なことだ。ラッセルは臆病でさえないガキンチョだが彼は老人カールを死の淵から救うのだ。そして、それは彼にとってもいいことだ。誰にも求められていないと感じている少年がカール老人から一人前の大人として助けを請われる。彼はそこで奮起する。その前の段階でできなかったことおかれは可能にする。それはまさに成長であり、教育なのだ。カールは時分の幻想たる探検家と戦うことで過去に縛られた自分を解放する。肉体は生命力を取り戻し、その価値観はあ本来彼が内包していた優しさにつながるのだ。カールはまさに息を吹き返すのだ。そして一方でいつまでも自分の過去にとらわれ、精神的ミイラと化した探検家は、日の光を浴びた吸血鬼のごとく世界から追放される。彼はあまりに長い間山奥に引きこもったせいで、生を取り戻すチャンスがなかったのだ。故に彼の行く末は死となる。カールはラッセルという人間、ダグという犬、そいれから怪鳥により死の淵からこと等に引き戻されるのだ。支配のみがすべての人間関係であった探検家と、まさにその逆といえる関係を(運良くとしか言いようがないが)手に入れた二人の大きな差はそれぞれの物語のカッキリと分けたのだ。カールは生を、探検家は死を。


物語は本土にもでって、それぞれの生活を描く。結局新しいバッジを手にしたにも関わらず、父親を振り向かすことができなかったラッセルだが、代わりにその役目を全うして食える人物を得る。もちろんそれはカールだ。カールは新しい人間関係を得てそれまでの執着と旅の中で決別していている。エリートの関係は物にこだわらなくても台上ののだと彼は吹っ切れている。カールにはエリーの代わりにラッセルがいるのだ。そして俺は決してエリーを忘れるってことではない。むしろエリーをいつまでも頭のな兄とどめておくーーすなわち生き続けると言うことにつながる。彼の執着の象徴たる家はパラダイスの丘でひっそりたたずんでいる。それはカールの区切りを象徴している。


劇中唯一よくわからなかったのは、犬たちがリスに覚える下りだ。あれは何なのだろうか?知っている人がいたら教えて。


それにしても完全に大人向けな映画で、これを子供が見てどれだけ理解できるかなぞだ。もちろんそのためにラッセルが配されたわけだが。だって第二の目的を勝ち取る老人の話なんだから。


映画として秀逸なのはやはり最初のカールとエリーの歴史を描いた数十分で、これは余りに素晴らしい。そのせいか残りのパートがかすんで見えるほどだ。だが、もちろん残りのパートだって素晴らしくよくできている。


かつてヘミングウェイが「人生は素晴らしい。戦う価値がある」って言葉にサマセット刑事が「前者はともかく後者には賛成だ」と言っていたが、カールならどっちも賛成するだろう。