ピーター・ソウ「晴れ ときどき くもり(2009)」 | 木島亭年代記

木島亭年代記

東北在住。
最近は映画も見てなきゃ本も読んでない。
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「カールじいさん」を見にいったのだが、例によって本篇の前に短編アニメが付いている。『晴れ ときどき くもり』というタイトルのそれは、「ダンボ」を思わせるオープニングから始める(『ダンボ』は耳が尋常に長い象の赤ちゃんがそのコンプレックスを跳ね飛ばして成長する話。そのOPでコウノトリがダンボを運んでくる。因みに、『ダンボ』はシダンボが酔っぱらったシーンが最高にサケデリックで興味深い)。すなわちコウノトリが赤ん坊を運んでくるという、極めて教育的によろしいシーンだ。それは置いておいて、この短編ではその赤ん坊を作る工程が見られる。セックスのない世界で果たして子供はどう生まれるか。答えは簡単。神様がつくるってこと。まあこの場合それを神と言って良いかは不明だが、創造主は神と呼んでも差支えないだろう。神は雲だ。文字通り、空に浮かんでいるあの雲が神々である。雲たちは雲から子供を作り出す。そして生み出した子供を布に包んでコンビのコウノトリに渡し、それを地上の生き物たちに届けさせる。ポイントはその雲の神様が一人ではなくたくさんいることだ。たくさんいるってことはどうしてもそこに差異ができてしまうということである。祝福されるべき“誕生”をつかさどる雲たちは概ね健康的でおおらかだ。しかし中には不健康そうでいじけた雲もいる。表現としては前者は真っ白で大きな雲であり、後者は小さくて灰色の雨雲だ。前者がかわいらしい人間の子供や、癖のない動物の赤ん坊を創造しているのに反して、雨雲は問題のある赤ん坊ばかりを生み出す。たとえば、ワニの子供、サメの子供、強靭な角を持ったヤギの子供などだ。とはいえそれは彼が醜いからではない。誰かがやらないといけないことであるわけだし、それにその赤ん坊たちが悪意に満ちた「オーメン」のダニエル君って訳ではないのだ。ちょっと扱いづらいけど彼らだって無邪気でかわいい子供である。ただ、問題が一つある。そう、それを運ぶのは誰かってことだ。コウノトリってのはそん何に頑丈な鳥ではない。毎度毎度アクの強い子供を運んでいいては体が持たない。ワニの子供にはかじられ、ヤギの子供にはぶちかましを食らわされ、ハリネズミの子供には針を刺される。雨雲の相棒のコウノトリは見るも無残な姿になっていく。その反面隣の雲は愛らしく、健全で扱いやすい子供を作り出している。赤ん坊をあやすためにアメフトのヘルメットをプレゼントしたりするのだ。誰だって同じ仕事ならそっちの方が良いに決まっている。あるときコウノトリは雨雲から離れ隣の雲に映っていく。ショックを受けた雨雲は怒り狂い(雷が落ちる)、それに疲れたら泣きだす(集中豪雨)。どうせ僕なんかと彼は落ち込む。激しく。するとコウノトリが戻ってきた。なんと彼が隣の雲に行ったのは、別に雨雲を見限ったからではなかったのだ。その結末は未見の人には悪いから書かないけど、何とも感動的だ。もしかしたら偽善といわれるかもしれないのだが、一切セリフを排し、キャラクターの動きや表情で物語っていく圧倒的な説得力とシンプルだけど頑丈な構成は何とも心地いい。物語というものをきちんと語りきることは難しいが、彼らは人もたやすくそれを語ってしまうのだ。現在のハリウッドでこれほど本来的なハリウッド映画を作れる存在は他にいないだろう。この短編映画だけでも見る価値は十分あった。


本篇の感想はまた明日。